おはようございます。
私は神社の神主ではありますが、
キリスト教の「聖書」が大好きです。
日本とは違った世界の成り立ちに触れ、またイエス様のお言葉、ご事績に敬意を抱いています。
最近では、youtubeで聖書の解説などもあるので、時間がある時に視聴しています。
できれば、時間を作って教会を訪れ、神父様や牧師様のお話を伺いたいとも願っています。
「聖書」に触れるようになったのは、大学生の頃からだったと思いますが、
その頃から、一番気になっていた言葉がありました。
それが「祝福」という言葉です。
創世記1章22節 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
創世記25章11節 アブラハムが死んだ後、神はその子イサクを祝福された。イサクはベエル・ラハイ・ロイのほとりに住んだ。
など、この「祝福」という言葉は本当に頻繁に出てきます。
そして、この言葉を辞書で調べてみると、「神がみずらかの恵みを授けること」とあります。
でも、私はずーっとこの意味がわかりませんでした。
なんで、お祝いするんだろう??と・・・
お祝いすることが、恵みを授けることとなんでつながるのだろう??
そんな疑問を抱きながら、私は神主として、神明に奉仕していたのです。
すると、ある時、あることに気づきました。
それは、「祝詞」という言葉です。
私は毎日、神様に対して、「祝詞」を奏上しています。
そして、この「祝詞」とは、本来、「お願い事」を神様に申し上げる言葉ではなく、
神様を称える言葉として使われていました。
神様は立派です、素晴らしいです、と神様を褒めたたえることよって、さらにそのお力を強くされ、
私たちにお恵みを与えて下さると昔の人は考えたのです。
そこで、この聖書の「祝福」という言葉が、再び思い起こされました。
なるほど・・・、これは、聖書における神は、人間を「称えた」のだな。と・・・・
もう少し掘り下げると、「称える」というのは、存在を「認める」ということだと思います。
つまり、「あなたは今生きている。命を有している。その素晴らしさを称え、認める」
神から今生きていることを称えられ、認められるというのは、そのままその恵みを頂くということになります。
今命が有ることのすばらしさ、それに気づけば、自然とお祝いしたくなるのは当然です。
だから「祝福」だのだと、腑に落ちたのです。
生きていることは、まさに幸福であり、それは最高に喜ばしいことだということです。
聖書の「祝福」という言葉、そして日本の神道の「祝詞」という言葉から、
命という奇跡のありがたさを学ぶことができました。
神は私たちを祝福されています。
それでは。