『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

統合神道について

 

おはようございます。

 

 

これまで何度か出てきている用語で、「統合神道」という用語があります。

 

これは、私の命名です。

 

神道というのは、その前に「〇〇」を付けて説明されることがよくあります。

 

何かとくっつけることによって、説明がしやすくなるからだと私は思っています。

 

例えば、「吉田神道」、京都の吉田神社の神職が中心になって打ち立てた神道。

 

或いは、「山王神道」、比叡山延暦寺で生じた神道。

 

また「国家神道」近代国家制度と結びついた神道。

 

ちなみに私は「国家神道」という言葉は使いません。「役人神道」・「官僚神道」という言い方をしています。国家と神道はそもそも分離できるものではないと考えているからです。

 

 

 

 

では、この「統合神道」とはなんでしょうか?

 

それが、これまで出てきた「存在するもの」・「それ」の事です。

 

私たち(命)の頭上から一本の線が宇宙の際に向かって、ずーっと伸びています。

 

その線の先、つまり宇宙の際を通り越すと、この「存在するもの」・「それ」に突き当たります。

 

この「存在するもの」・「それ」には名前がありません。

 

しかし、私たち(命)すべてとつながっている、この「存在するもの」・「それ」の最大の特徴が、愛に満ちた「統合」なのです。

 

空間も時間もありません、私とあなたの区別もありません、すべての考えや思いが対立することなく調和した「光」です。

 

そして、その「存在するもの」・「それ」の言わば、ひとかけらが私たちの「命」というエネルギーなのです。

 

ただし「ひとかけら」と言っても、「存在するもの・「それ」となんら性質が変わるものではありません。

 

私たちの命という光は、先ほど言ったように、実は愛に満ちた「統合」という特徴を持ち合わせているのです。

 

例えば目の前に、赤の他にがいるとします。生まれも育ちも、年収も資産も、思想も信条も、住んでいる所も、性別も年齢も違います。

 

しかし共通していることが一つだけあります。

 

それが「今生きている」ということです。

 

お互い「今生きている」つまり「命が有る」ということは、寸分たがわず同じです。

 

その「命」こそ、「存在するもの」・「それ」です。つまり、まったく知らない赤の他人であっても、

 

肉体を含め、お互いの違いをすべて取り除いてしまえば、実は全く同じ存在であるという考えです。

 

人はお互いの違いを見つけて、悲しんだり、うらやんだり、悔しがったり、時には奪ったりします。

 

「存在するもの」・「それ」は愛に満ちた存在なので、

 

光の線の先(宇宙の際の向こう側)では、このネガティヴな感情を体験することがありません。

 

ですから、わざわざ、「存在するもの」・「それ」は、

 

「統合」とは真反対の「分離」という特徴を持った、「物理宇宙」に「肉体」を使って、愛の反対である、

 

悲しい、うらやましい、悔しい、辛い、苦しい、罪、憤り、辱め・・・・などの感情をわざわざ、体験しに来ているのです。それぞれの体を通じて。

 

ですから、先ほど以来申している通り、この世界はそれぞれを「分離」することによって、「違い」というものが生じているのです。

 

「存在するもの」・「それ」は、愛の反対である、苦しみの体験をすることによって、より愛のすばらしさ、有難さ、美しさなどを体感し、

 

ここからすごく重要)

 

「自分とは何ものなのか」という問いに挑み続けているのです。

 

「私という素晴らしい存在をより愛し、より理解し、より慈しむためにはどうすればよいのか」

 

という「自己愛」をより深めるために、「物理宇宙」に自らのひとかけらを「命」として送り込み、さまざまな体験をしているのです。

 

つまり分離した私たちの「命」であっても、自分という存在をより深く愛するという大きな目的を持っているのです。

 

そして、先ほど申した通り、実は、赤の他人も、自分も、実は同じ「存在するもの」・「それ」ですから、

 

自分を愛するということは、他人を愛することと、同じことなのです。

 

実際は、「違い」によって、それをするのが難しくなるものですが。

 

これが、「存在するもの」・「それ」の概要です。

 

 

 

これを踏まえた上で、

 

人々はこの「物理宇宙」の「分離」という特徴の影響を受けることによって、様々な体験をしますが、

 

時として「分離の苦しみ」を味わうことになります。

 

具体例を言えば、「肉体を持っている」という「分離」の特徴は、「苦しみ」の原因でもあるのです。

 

やがて衰え、そして滅びますから。

 

また「思想の差異」という「分離」の特徴も「苦しみ」の原因になります。

 

考えが違うことによって、お互いを理解できず、争いの元になりますから。

 

このように、「分離」の特徴を持つ「物理宇宙」では、様々な苦しみが生じるのです。

 

その苦しみから解放されたい、救われたい。という人々の願いが、

 

やがて「宗教」や「信仰」あるいは「思想」という形となって現れます。

 

それは、その民族や風土、人々を苦しみから解放したいと思う宗教家や思想家など、

 

これもまたバラバラに分離しながら、形を整え、各地に広がり、今日に至りますが、

 

目的はやはり「分離」による苦しみからの解放です。

 

「宗教」という英語は「religion」と言いますが、

 

これは「再びつなげる」という意味を持っています。

 

つまり、「分離」したものを再び「統合」することによって、人は救われる。という意味なのです。

 

 

従って、この構図を理解しておけば、

 

どの宗教を信奉していようが、どんな思想を持っていようが、同じだということです。

 

宗教や思想という表現方法は異なりますが、

 

人を苦しみから救いたいという開祖や教祖の「命の目的」は共通しているからです。

 

 

 

私は神道という日本の信仰・思想を用いて

 

「存在するもの」・「それ」の「統合」という特徴を広めることで、

 

私が救われたように、心に苦しみを抱えている人のお役に立てると信じています。

 

ですから、「統合神道」という名前を作ったのです。

 

難しいかも知れませんが、是非なんどかお読みいただき、ご理解いただけると嬉しいです。

 

 

 

それでは、また。