神様の「教え」の意味
おはようございます。
「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラーム」
いずれも中東に起源を持つ「宗教」です。
今では世界中で多くの人たちがこれらの宗教を信奉されています。
上記の宗教に限りませんが、宗教には「教え」が伴うものです。
これらの教えを信じることによって、人々は救われていくのです。
ではなぜこれら「教え」があるのでしょう?
それは端的に言ってしまえば、
「生きるため」です。
例えばイスラームでは「豚肉」を食べることが禁じられています。
これはなぜでしょう??
豚は汚れているからでしょうか?
違います。
豚は他の肉と比べて細菌が多く、生で食べれば食あたりを起こし、最悪命を落とします。
では「火を通せばよい」と思いますよね?
もちろんそうです。豚肉は「火を通せば」大変美味しく頂ける食材です。
では、その火を起こす「薪」を拾ってきてください。
「はい、わかりましたぁ~」と言えるのは、あなたが日本人だからです。
イスラームという宗教が生じた地域は中東です。
砂漠がどこまでも続くような場所です。
そんな場所でどうやって薪を拾ってくるのでしょうか?
砂と岩だらけ、泉にはわずかな水が湧いているだけです。
木どころか、草さえ生えないような場所だってあるのです。
燃料がどれだけ貴重かがわかると思います。
だから豚肉を調理するために「薪」を使うことが避けられるようになったのです。
その神の「教え」を守ることによって、「餓えと渇き」がない、つまり「生きること」ができるのです。
これが神様の教えを守るということなわけです。
或いは、イスラームに限らず、キリスト教もユダヤ教も、
「偶像崇拝」を禁止しています。
石像や銅像を作り、これを拝んではいけないという「教え」があります。
これは何ででしょう?
私の考えは
「荷物が増える」からです。
先ほども申した通り、これらの宗教は砂漠の宗教です。
確かに街を形成し、そこに定住していた人もたくさんいます。
でも砂漠の中を、泉を求めて、季節ごとに移住しながら生きていく人たちもたくさんいるのです。
こうした人が、偶像を作るということは、それだけ荷物が増えるということになります。
あるいは、奈良の大仏様のように大きければ、持ち歩くことはできません。
するとその偶像に対して「執着」する人も出てきます。
その為に移動する時期を誤ったり、仲間同士で移動する人、しない人が現れてしまうかも知れません。
そうなったら、やはり生活することができなくなり、「生きていく」ことが難しくなってしまうのです。
だから「偶像」を拝むのではなく、唯一絶対の神と自分の精神をいつでも、どんな時でも繋げているようにと教えられるのです。
こうした「宗教」の「教え」は人間が、その環境下において、
どうすれば「生きられるか」。
その知恵がたっぷりと含まれていると私は思っています。
言わば、「宗教」そのものが「泉」となって、
人々を「餓えと渇き」から遠ざける役目を担ってくれているのです。
中東を起源に持つ宗教について語っていきましたが、
こうした宗教は人々にとって「生きるため」に欠かせないものであることが、理解できると思います。
さぁ
それでは日本はどうなんでしょう?
私たちの国ニッポンのオリジナル中のオリジナル、「神道」について次回のブログで一緒に考えてみたいと思います。
それでは!