「命」の思い・願い・目的などについて
おはようございます。
私たちの肉体には「命」が宿っています。
この「命」があるからこそ、この肉体が肉体として機能しているのです。
この「命」とは「存在するもの」・「それ」、或いは「元型」・「アーキタイプ」(名前はなんでもいいです)の「ひとかけら」です。
「ひとかけら」というと、これらと分離しているようなイメージを持ちやすいですが、
決して分離しておらず、「光の線」によってつながっており、その先端が私たちの肉体を覆っています。
これが「命」というわけです。もう少し正確に言うと、それを「命」と表現しているのです。
「命」は単に、この肉体を維持するだけの、いわばエネルギーだけではありません。
確かにそういう役割も持っていますが、それだけではないのです。
(1)思い・願い・目的を持っています。
(2)その(1)を達成するために「理由のない好き」という手段を1つまたは複数持っています。
先ず(1)から考えていきます。
実はこれは「命」というより「存在するもの」・「それ」の思い・願い・目的と完全に一致します。
「存在するもの」・「それ」の思い・願い・目的とは一体なんでしょう?
それは「愛で満たされたこの素晴らしい私をより知りたい」ということです。
もっとギュッと短い言葉で言ってしまえば、「自己を知る」や「存在を探求する」になります。
「存在するもの」・「それ」は己が、現に存在していることの素晴らしさを知っています。
だからそれを様々な「方法」を用いて味わおうとしているのです。
その一つの方法が、己の中に「物理宇宙(世界)」を作りだし、そこへ肉体を伴った「有なる存在」を送り込むという方法です。
これが、私たち人間が、物理宇宙の地球という星に肉体を伴って、存在している所以なのです。
私たちはこの肉体を通じて、様々な体験をし、様々な感情をめぐらします。
「存在するもの」・「それ」は、自分が愛で満たされ、素晴らしい存在であることを知っています。
しかし、先ほども申した通り、よりその愛を知りたいと思っています。
だから「分離」という特徴をもった物理宇宙(世界)にその一部を「命」という形で送り込み、
「分離」という特徴によって生じる様々な「差」・「格差」を目の当たりにすることによって、
苦しみ・悲しみ・憎しみ・恨み・妬み・僻み・無価値・絶望・・・といった、「愛」とは正反対の感情を体感することになります。
これを「物理宇宙(世界)」における「逆体験」と言っています。
そして、肉体が滅び、「命」がその役目を終えた時、
その肉体を通じて得た体験に基づく様々な「学び」だけを「存在するもの」・「それ」へと持ち帰るのです。
そして、例えば「人を恨み続けた人生」であったのであれば、その反対である「人を愛するという素晴らしさ」の意味を改めて実感するのです。
学びというのは、他人から教わった「知識」のことを言うのではなく、自ら体感することによってのみ得られるものです。
その方法がこの「逆体験」というわけです。
私たちの「命」には常に、「愛で満たされたこの素晴らしい私をより知りたい」という願いが備わっています。
その思い・願い・目的を達成するために、(2)というものがあるのです。
これは人によってそれぞれ異なります。
人は生まれながらにして、「理由のない好き」を持っています。
人から言われるわけでもなく、ただ好きで、やっていると熱中して、時間を忘れて没頭してしまう事を持っています。
それは人によっては一つの場合もありますし、複数の場合もあります。
主に子供の頃に夢中になった事です。
これを徹底的にやり続けることによって、(1)の目的が達成されます。
つまり、自分の「理由のない好き」をやり続けることによって、自分という存在を探求し、それによって人々にも愛を分かつようになるです。
これは、別にそうしようと思ってやるようなことでもありません。
ただ「理由のない好き」を続けていれば、勝手にそうなっていく。ということです。
それが、この世にすでに存在している職業や立場なのか(例)先生や弁護士、ビジネスマンや主婦、農家や地域の役員など、なんでも
或いは、職業などとしてまだ存在せず、あなたがそれを創造するのか、それはそれを極めようとする人にしかわからないことなのです。
しかしいずれにせよ、人間は一人残らず、この「愛で満たされたこの素晴らしい私をより知りたい」という「命」の願いをかなえるための
手段である「理由のない好き」を持っています。
それを見つけ、それに没頭し、そして結果的に、人々にその愛を分かつことができるようになった人が本当に「成功者」というわけです。
ただここで、確認しておくべきことがあります。
それは「他人はいない」ということです。
「命」というのは、この物理宇宙(世界)においては、分離していて、それぞれ別に肉体に宿っていますが、
すべては「光の線」によって、一つの「存在するもの」・「それ」とつながっています。
つまり、実は皆元は一つだということです。
ということは、「他人」と言っているのは、確かに肉体は別であっても、「命」は全く同じであり、
すなわち、「愛で満たされたこの素晴らしい私をより知りたい」という目的も同じであるということです。
ですから、「命」には自分や他人といった区別が本来ないため、結局「理由のない好き」を追求することによって、
自然と他人のためにもなるということにつながるのです。
しかし、「理由のない好き」を無視し、「理由のある好き」を追求することによって、
自分やごくわずかな周囲の人のためだけに生きようとする生き方は、「命」の願いや目的とは異なる生き方になってしまい、
「その人がその人らしく生きられない」という悲劇が生じてしまうのです。
(といっても、その悲劇をその肉体を通じて学んだということになるので、それが悪い事では決してありません。ただ生きづらいことは確かです)
文字にするととても難しいのですが、
改めて、「命」の思い・願い・目的などについて、語ってみました。
ご質問があれば、ご連絡下さい。
それではまた。