『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

だから「みんな」って誰よ?(笑)

おはようございます。

 

 今日は冷たい雨・・・

風邪ひかないようにして下さい。

 

 

 

今日はこんなお話・・・

 

子供がよくこんなことを言ったりします。

 

「おもちゃが欲しい!!みんな持ってるのに私だけ持ってない!」

 

親は笑いながら「みんな」ってのは誰よ?と訊ね、

 

子供は「みんなってのは全員!クラスの全員だよ!」

 

と答えるのです。

 

 

或いはこういうのもあります。

 

子供同士の会話で

 

「俺はこの前ミニカーを買ってもらったんだ!」

 

「僕はこの前ゲームを買ってもらったんだ!」

 

「俺は珍しい昆虫を飼ってるんだ!」

 

「僕は今度遊園地に連れて行ってもらうんだ!」

 

と次々に相手よりも自分の方がすごいんだ!という自慢合戦を繰り返すのです。

 

 

さて・・・

 

「私はダメな人間だ・・・みんなと比べて学歴は低いし、収入も低い・・・」

「俺は本当に才能がない、何をやってもみんなのようにうまくいかない・・・」

「あの人のこと、みんな嫌っているよね。」

 

 

或いは

 

「ちょっと無理したけどローンでスポーツカーを買ったんだ!仲間に見せよう」

「このビジネスを始めると、俺みたいにリッチになれるよ」

「世界一周や豪華客船の旅はもう普通、俺は月に行って見せる!」

 

他にも色々ありますが・・・

 

どうですか??

笑えてきませんか??

「みんな」って誰の事なんですかね?

子供に「みんな」って誰の事?って聞いている大人が、同じように自分とその周辺の人たちのことを「みんな」と称して、それがあたかも全人類のように感じていたり、

 

子供同士の自慢合戦の規模がただ単に少し大きくなっただけで、しかも悪い事に見栄が異常に膨らんでそれを利用されてしまう場合だってあるのです。

 

そう・・・

 

私たち人間は、大人も子供とほとんど頭の中は変わらないのです。

ただ、体が大きくなって、ほんの少しだけ行動範囲が広がって、扱う金額が大きくなったくらいで、実際の所は自分の周りが「世界」だと認識しているし、自分を相手よりもよく見せようと必死になっている生き物なのです。

 

子供の事なんて全然笑えないのです。

 

 

なぜこのようなことが起きるのか、

まず自分の周りが「世界」だと思ってしまうのは・・・

本当はとてつもなく広い世界なのに、「肉体」を持つことによって、

その逆の世界は狭いという認識を得るようになります。

それによって「制限された私」というものを体感しているのです。

私たちは元々「肉体」を有する前は「制限のない私」です。

どこまでも広く、どこまでも自由な存在でした。

それにあえて「制限」を加えることによって、自分が本当は広く、自由な存在であることを「確認」しているのです。

 

次にいくつになっても他人よりも自分がすごいと主張してしまうのは・・・

周りにある価値がありそうなものを自分にくっつけることによって、

あたかも自分はすごい人間だと思ったり、他人に思ってもらうことで、

本当の自分の価値というものをどんどん忘れているのです。

本当の自分の価値というのは「存在している」ということです。

その「存在している」ということを忘れることによって、実際のこの肉体を失った時(死と呼んでいる時)に、自分が存在していたことの素晴らしさ、尊さを深く深く実感するようにようになっているからです。

だから生まれる時も、死ぬときもみんな裸で、何も持たずに生まれ、そして死んでいくのです。これが、この物理宇宙(世界)にある、どんなものをくっつけたって、その人の価値が上がったり、下がったりすることがない証拠なのです。

 

 

いや~

今日は難しかったですね。

私も書いていて、頭がこんがらがってしまいました。

でも、とても重要なキーワードが出てきましたね。

それが「肉体」という「制限」

そして「存在している」

というものです。

これらをより考察することで、また新たな気づきが訪れることでしょう。

何度か読み返して、是非理解してみて下さい。

 

それではまた!