『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

見て!見て!見て!見てぇ!!

おはようございます。

 

ちょっと時期外れのお話ですが、お付き合いください。

 

 

 

先日母親が

 

「そう言えば、3月の卒業式シーズンに、〇〇中学校の前を車で通ったら、「特攻服」を着た中学生が3人いたんだよ~」

と言っていました。

 

卒業式に短ラン・ボンタンで、刺繍を入れた制服を「特攻服」っと称するそうですが、

地域によっては、この服装をしている中学生や高校生もいると思いますが、

 

僕の地元でもまだこういう文化?が健在みたいです。(といっても3人ですからね。僕の頃はもっと多かったです)

 

さぁ、この3人はなぜこんな格好をしたのでしょう??

 

「俺はすごいんだ!」「俺は強いんだ!」「俺は周りとは違うんだ!」と無言の裡にアピールし、そして、わざわざ「卒業式」という日を狙って、この姿になったと思われます。

なぜでしょう??

 

先生をびっくりさせたかったから?

クラスのみんなや、後輩に一目置いてほしかったから?

多分、違うと思います。これらは表面的な事に過ぎません。

 

 

恐らく

 

 

「お母さん」に見てほしかったんだと思います。

 

 

なぜか・・・

「お母さん」の愛情に飢えて育ったからです。

 

 

赤ちゃんはお母さんのお乳を飲んでいる時、どこを向きながら飲んでいると思いますか?

まさかテレビを見ながらお乳を飲む赤ちゃんはいません。

お母さんの目を一心の見ながら「僕・私すごいでしょ~!」と言わんばかりに、得意な顔をしながら飲んでいます。

 

小さな子供は「ねーねー見て見て!!これすごいでしょう!」と必死になって、

主たる養育者(主に母親)に、色々な事の承認を求め、「すごいわね~」と言われて大満足をします。

 

子供は基本的に「不安」な存在です。1人では生きていけないことを自分で知っているからです。

ですから、それが「甘え」という形で表れます。ですからスキンシップを求めて安心を得ようとします。

 

 

こうした母子関係が、何らかの形でうまく形成されなかった場合に、不満や不安が意識深くに沈められています。

そしてある程度成長した時に、例えば今回の話のように、奇異な格好をして、注目を浴びようとするわけです。

 

子供の頃に果たせなかった、お母さんからの注目を浴びたいという、悲願・哀願・懇願・切願・・・

それが深い深い不満と不安を生み出し、本人の人生を「自己破壊」という形で狂わせてしまっているのです。

原っぱに取り残された小さな子供が、不安で不安で仕方なく、助けてほしくて、泣きじゃくっているのと全く同じ状態です。

実は一番辛いのは当の本人なのです。

どこまでも続く螺旋階段を行ったり来たりするような、

ハムスターが使う、クルクル回る遊具とも知らずに、親の愛情を求めて必死に走り続けるような、

そんな苦しみと闘っているのです。

 

そして本当に、本当に、最悪の事態になると、

 

 

お母さんに愛されたい、でも愛されない、だから誰でもいいから愛されたい、でも愛されない、だから全員憎らしい、そして誰でもいいから殺したい。

 

または

 

お母さんに愛されたい、でも愛されない、あれをしても愛されない、これをしても愛されない、だったら自殺して、最高の注目を浴びよう。

 

となってしまうのです。

 

 

 

もし子供を愛せなかったら、先ずはご自分を愛して下さい。

そして、形だけもいいから、子供を抱きしめてあげて下さい。

人間の心は愛を食べて大きくなります。

それは子供や大人、関係ありません。

 

私たちは本当の愛を知っています。

その本当の愛をより深く理解するために、

あえてその逆の苦しい体験をしているのです。

 

それに気づいた時、その苦しい体験の役割は終わり、

本当の愛に気づき、そして人を愛を分かち合う使命に気づくのです。

 

またまた、最後はまたムズカシイ話になってしまいました。

ごめんなさい。

 

 

 

それでは今日はここまで、

最後までお読みいただき、ありがとうございます