『神主の遺言』

『統合神道』唯一の神主のブログ。それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

信仰とお金の話し

おはようございます。

 

 

 

今日は「信仰」と「お金」のお話をしたいと思います。

というのも、神社に奉仕していると、参拝者やご祈祷を受ける方から、

 

「神社へお供えするお金はどのくらい包むのがよいのでしょう??」

 

というご質問を受けることが大変多いからです。

「お気持ちで・・・」と言われても、その「お気持ち」がわからない。

という方が多いですし、

神社によってははっきりと「金額」が提示されている場合もあります。

これではやはり一般の方は混乱してしまうでしょうから、

ここで参考までに、私のお話をお聞き頂きたいと思います。

 

 

例えば厄払いで考えてみましょう。

 

庄吉さんは、田んぼをたくさん持っていて、人に貸している程です。毎年米蔵にはたくさんの米俵が積まれ、暮らしも豊かです。今年は42歳の厄年を迎えました。

 

弥助さんは、庄吉さんの田んぼを借りて稲作をしています。年貢や庄吉さんへの田んぼの借賃をその年の収穫から支払い、残りを家族で使いながら生活をしています。結構生活はギリギリです。彼も今年で42歳の厄年を迎えました。

 

お千代さんは、父・母の三人暮らし。小さいですが田んぼを持っていて、生活には困っていません。今年で19歳の厄年を迎えました。彼女は小さい頃はとても病気がちで、医者からは10歳まで生きられないだろう。と言われていました。しかしこうして元気にここまで暮らせていることに家族みんな嬉しく感じています。

 

さて

この庄吉さん、弥助さん、お千代さんはいずれも、今年厄年です。

しかし、もうお分かりの通り、この三人は収入が全然違います。

神社へお納めするお金を「初穂料」と言いますが、

これは収穫する稲の一番最初に刈り取ったものを神前にお供えするということです。

確かに物理的に一番最初に刈り取った稲穂の量は、人間の手で握った一掴みですので、同じだとも言えますが、

すべてを収穫し終え、全体を通してみた時、「初穂」の比率に大きな違いが生じます。

 

ですから、この三人が、同じ「初穂料」というのはオカシイというわけです。

 

庄吉さんはそれなりに多めに出すべきですし、

弥助さんは平均よりも少し少なくていいですし、

お千代さんは父母と暮らしてまだ本人に収入がないわけですから、やはり少なくていいわけです。

 

しかし・・・

お千代さんは子供の頃に医者から10歳まで生きられないと言われていたのに、それを遥かに超えて生きていて、しかも元気であるということにとても感謝しています。ですので、その感謝を表す意味を込めて、初穂料にもう少し「上乗せ」してお供えするのもいいわけです。

 

このように、初穂料というのは、その人にとってまちまちです。

収入や年齢によっても違いますし、お千代さんのように「多めに出したい」という人だっているわけです。

今の話は個人のお話しで、且つお米を軸にした例でしたが、これに限ったことではありません。

 

一部上場企業で、従業員何千人で、年商何百億という会社と、家族で経営している商店とでは、同じ「商売繁盛」の祈願でも、初穂料は当然変わります。

或いは

大規模再開発を請け負うゼネコン企業と、木造二階建ての家屋を建てる工務店では「地鎮祭」の規模も違うので、やはり初穂料にも違いが出ます。

と言った具合です。

 

ただ、そうなると、中には「1円」

みたない、明かに常識から逸脱した人も出てくる可能性があります。

それを避けるために、神社によっては、

「5000円以上からお願いします」とか「10000円以上からお願いします」

のような「目安」を表示しているのだと思います。

 

また中には、

「5000円」(ご祈祷・御札(小))

「10000円」(ご祈祷・御札(中)・撤下品)

「30000円以上」(ご祈祷・御札(大)・撤下品)

のように、ご祈祷の内容や御札・撤下品の違いによって、はじめから金額を提示している神社もあります。当然こちらの方が分かりやすいと言えば分かりやすいと思います。

 

 

しかし、ここからは今の神社界から全く理解されない自論を展開しますが・・・

私個人としては、神社は一般の方々に対して、上記の例(庄吉さんたちのお話)をするだけにし、あとは所得に応じた「目安表」を提示するだけに留めた方が良いと考えています。

 

つまり、極論「1円」でも良い。

ということです。

 

また、これまではご祈祷・ご祈願の際に納める「初穂料」の事だけを語ってきましたが、神社で頒布される、御札やお守りなども、私個人としては「値段」は付けるべきではないと考えいます。

つまり、500円納めてお守りを受ける人もいれば、1000円の人もいる。中には1円の人もいる。ということです。

こちらから(神社から)、このお守りはいくらです。と提示するのは、私個人としては信仰に添っていないと思えるのです。

ただ当然「原価」というのがありますから、それを「目安」として提示するのは仕方ないことでしょう。

 

私が言いたいのは、神社が商業主義に走ってはいけない。ということです。

もちろんたくさんの参拝者が神社へお金を納めてくれれば、神社の社入(収入)は増加します。それも大事です。

しかし一般の方々に神社とは何か、信仰とは何かということを理解してもらうことも同じように大事なことです。

わかりにくい、説明が面倒くさいという理由で、一般の方々の「お金という信仰の形」をこちら側が決めてしまうのは、いかがなものか。と常々思うわけです。

 

そして、もっともっと今の神社界から理解されない自論を述べれば・・・

 

現在、神社というのは、いわゆる「独立採算制」です。

それぞれの神社の長(基本、宮司)が、その神社の収支の管理をしています。

つまり

都市部にある神社、山間部にある神社と言った地理的条件

特別な信仰を有している神社、特にそういうのはなく普通の氏神神社と言った付加価値的?条件

神職のやる気の有無と言った人的条件

などによって、神社の社入は全然変わってきます。

 

最後の神職のやる気の有無というのは論外ですが、それぞれの神社の持つ条件によって、社入が変わるということは、それだけ格差が生まれるということになります。

従って、最終的には衰退し、神社そのものが消滅してしまうという事態が生じてしまうわけです。(現に今それが起こっていますし、これからどんどん増えていきます)

 

神社界の使命は、神社の祭祀の維持ですから、今の状況では必ずそこから漏れ落ちる神社が出てきてしまいます。

そこで私としては、すべての神社の社入は一つにまとめ、神社の等級に応じた予算をそこから分配するという形式を採用すべきだと考えています。

そうすれば、例え参拝が少ない神社であっても、祭祀が継続されるわけですから。

 

まぁこんなこと言ってる神職は私ぐらいでしょうけど。

 

 

最後はなんだか難しい話になってしまいましたが、神社へ行く際の参考にして頂ければと思います。

それではまた。