命あるものに捧げる「真理の話」(上)
こんにちはぁ。
ツイッターでお知らせした通り、とっても大切なお話を致します。
根本の根本のお話です。
そして、最初に申し上げなければいけないことがあります。
それは・・・
私たちは、私、あなたのようにそれぞれ「分離」しています。ですので何か物事を伝える場合、主に「言葉」、そして「イメージ」を用いる必要があります。
これは「分離の原則」の一つなのです。
しかし、これからのお話は、この「言葉」や「イメージ」とは次元の違う内容です。
「感覚」のお話なのです。
とは言え、私たちは言葉(文字)・イメージを使い、表現する以外に「方法」がありません。ですからこのブログでもこれらの方法を用いるわけです。
・・・・ということをまず押さえておいていただきたいのです。
さて
生きる意味はとは何か・・・
人間の生きる目的とは・・・
なぜ私は生まれてきたのか・・・
みたいな議論があります。
これらの問いは
「私はなぜ存在しているのか」
という問いにまとめられます。
私という存在が、今ここにいる理由というものがあるのではないか・・・
というわけです。
今回はこの問いから話を進めていきたいと思います。
しかしその前に、この「私」という存在について、今まで持っている感覚やイメージを一掃する必要があるのです。
私たちは「私」という存在を、この「身体」だと思っています。
確かにそれは間違えではありません。
しかし正確ではないのです。
(ここから ↓ イメージを使って表現します)
「私」とは「大きな私」と「小さな私」があります。
私たちが普段「私」と呼んでいる「私」は、「小さな私」を指しています。つまり今住んでいる「物理宇宙(世界)」において、一つの身体に「命」が宿った存在の事です。
では「大きな私」とは一体何でしょう?
それはこの「物理宇宙(世界)」の先の存在です。
宇宙はとても広く広大です。しかしその「端」があります。
その「端」を突き抜けた先が「大きな私」です。
ここで重要なのは、
突き抜けた先「に」、「大きな私」がいるのではありません。
突き抜けた先「が」、「大きな私」なのです。
「大きな私」がどのような姿なのか変わりません。
というより、空間でも、物質でもないので、姿という表現も実は適当ではありません。
しかし便宜上そのように表現しています。
どのような姿かかわかりませんが、この話を進めていく関係上、仕方なく以下のようなイメージとしてお伝えします。
それが「光」です。
巨大な巨大な巨大な巨大な・・・・・光の塊だと思って下さい。
それが「大きな私」です。
(ここからとても重要です)
そしてこの「大きな私」は、それまで「存在しなかった」のです。
ところが理由はわかりませんが(本当にわかりません)何等かの理由で「存在する」ようになったのです。
これもイメージでしかありませんが
真っ暗闇の中に、ピカーンと突如として光「大きな私」が生じたと言った感じです。
これによって「大きな私」は、今まで存在が「無かった」のに、「有る存在」になったのです。
「大きな私」は
自分が「存在している」という事実、
そして「存在している」からこそ、何でもできるという事実が、
嬉しくて、嬉しくて・・・
ありがたくて、ありがたくて・・・
自分が愛しくて、愛しくて・・・
大切で、大切で、素晴らしくて、素晴らしくて・・・・
100パーセント、一点の濁りもなく、自らの存在を愛し、誇っているのです。
そして「大きな私」はそんな素晴らしい「自分とは一体何者なのか?」という問いを持っています。これを「大いなる問い」と私(いずみしんじ)は呼んでいます。
しかし、「大きな私」は他に比較対象する存在がありません。(外がないのです)
誰か横に居れば、「あなたはこういう存在です」と教えてもらえますし、誰かと自分を比較して自分とはこういう存在だと推し量ることもできます。
しかしそれができないのです。
そこで「大きな私」は自分の内側に
空間、時間、物質、有限、分離、境界・・・
と言った「自分とは異なる性質の世界」を作り出し、
そこへ、多種多様な「命」を宿した(生命体)を送り込んで、
それぞれの肉体を通じて様々な経験をさせ、
その肉体が滅んだ後、その経験に基づいて、先ほどの「大いなる問い」の答えを導き出そうとしているのです。
つまり、
「大きな私」の中に作り出された宇宙の、地球と言う星に、人間という命を宿した一生命体が、私たちが普段「私」と呼んでいる存在、つまり「小さな私」なのです。
そして、私たちは、それぞれの「一生」を通じて、様々な経験をするわけですが、それは、「大きな私」の「自分とは一体何者なのか?」という「大いなる問い」の答えを探していると言ってよいのです。
ところが・・・
実はこの「大いなる問い」の答えというのはすでに出ているのです。
というより、「大きな私」の「自分とは一体何者なのか?」という問いの答えは、「最初」から出ているのです。
では、その答えとは何でしょう??
それが・・・
「愛」です。
「大きな私」は自らの存在が「愛」そのものであることを知っているのです。
自分という存在を深く深く愛しているのです。
それまで「無かった」自分が、「有る存在」となった喜びに打ち震え、その最高に素晴らしい自分という存在を一点の濁りもなく愛しているのです。
「愛している」というと、その反対や強弱があるように感じますが、これは正しくありません。「愛そのもの」なのです。
だから、「大きな私」は永久に、永遠に、永劫に、自分という存在を、もっと理解しよう、もっと愛そう、もっと慈しもう・・・と思うからこそ、自らの「ゼロと永遠」という特性を用いて、自分の中の宇宙にさまざまな生命体を送り込んでは、個別の肉体を通じて、さまざまな経験を積むことを繰り返しているのです。
従ってもうお気づきの通り、
この物理宇宙(世界)に住んでいる、私たち「小さい私」というのは、確かに分離、独立した個別の存在ではありますが、それは肉体のことを言っているだけであり、本当はすべて一緒なのです。
つまり、あなたも私も、すべてこの「大きな私」の一部なのです。ということは実はこの世に「他人は存在しない」と言ってもいいのです。
そして、命あるモノは、肉体があるから命があるのではなく、肉体に命という「大きな私」の一部を宿すことよって、この肉体を維持しています。
つまり、「命」とは「大きな私」と直接つながっているのです。すなわち私たちが一つづつ持っているこの「命」が「愛そのもの」であることに気づくのです。
このように私たちは、「命」という「大きな私」の一部を肉体に宿し、分離した個別の存在である「小さな私」として一生を過ごすわけですが・・・
先ほど申した通り、「大きな私」は自分の中に「自分とは異なる性質の世界」を作り出すことによって、その「大いなる問い」の答えである、自分という存在=愛について探求しています。
ですので、「愛」とは真逆の状況・環境・出来事などを経験することが、最もある意味手っ取り早い「愛の理解の仕方」なのです。
恋人がいなくなって、その愛の深さを知る。
親がいなくなって、その有難さを知る。
病気になって、健康の素晴らしさを実感する。
のようなものです。
これを「逆体験」と言います。
この「逆体験」こそが、私たち「小さい私」が、生きている上で経験する、さまざまなネガティブな体験、思考、結果などです。
つまり「愛」とかけ離れた経験をすることによって、愛の素晴らしさ(つまり自分「大きな私」の素晴らしさ)を理解しているのです。
しかし実際にネガティブな経験をしている「小さな私」はそんなこと知りませんから、当然精神的・肉体的な苦しみを感じ続けることになるわけです。
私たちが感じるネガティブの中で、特に人生を苦しめるものが「無価値感」ですが・・・
自分(大きな私)は、自らが愛そのもの、価値そのもの、これ以上のない素晴らしい存在であることを知っています。そしてそれをより理解したいと思っています。
ですからそれとは全く逆のネガティブな出来事を通じて「無価値感」を感じているという仕組みなのです。
つまり「無価値感」とは(誤解を恐れず言えば)、最も分かりやすく、ひねりのない「愛の理解の仕方」というわけなのです。
※実際に感じている人にとってはたまったものではありませんが。(というか私も経験者ですけど)
しかし、なるほど、私たちが経験するネガティブには、一つひとつ理由があり、そしてそれは「大きな私」が、他の誰かではなく、私という存在を底なしに愛しているからこそ与えられた経験であったという気づきによって、精神的な苦しみから、解放の時を迎えるのです。
長くなってしまったので、ここまでを(上)とし(下)へと続きます。