『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

命あるものに捧げる「真理の話」(下)

命あるものに捧げる「真理の話」(上)

の続きです。

 

 

 

このように、いよいよこの人生に起こるさまざまなネガティブな出来事(実際はネガティブだけではありませんが)には意味があり、それは私という存在を、私自身が限りなく愛しているかこそ生じたものだったのだ。という気づきが、その人に解放をもたらし、それまでの生き方とは違う生き方が模索されるようになるわけです。

 

 

そして

少し抽象的な物言いになってしまいますが、実はここがすごく大事なのですが、この状態が「大きな私と小さな私の統合」ということになるのです。

 

「小さな私」が「大きな私」の「自分とは一体何者なのか?」という「大いなる問い」に向き合っている理由である、「存在している」というこれ以上のない喜び、そしてその存在している自分をさらに愛し、理解しようとしていることをはっきりと理解し、だから今この物理宇宙(世界)において、この「小さな私」が「存在して」し、そして、この一生を通じ、体いっぱい使って、愛を理解しようとしているのだと気づいた時、「大きな私」と「小さな私」の「存在している」ことに対する喜びと理解がぴったりと一致するのです。

 

「小さな私」は確かに肉体を持った物理宇宙(世界)に生きる、有限な存在ではありますが、上記の仕組みを体感することによって、私たちは、

「大きな私として生きる小さな私」という存在へと変化するようになるのです。

つまり、「私」という存在を、「大きな私」と同じように、心から愛し、大切にし、そしてより理解しようとする生き方へとシフトしていきます。

 

「価値を外に求める」のではく、自分というこれ以上のない、価値そのものを愛するようになると、それまで気づかなかった(正確には無視してきた)「小さな私」に一つ或いは複数備わっている「理由のない好き」の存在に気づくのです。

 

この「理由のない好き」に対して、「理由のある好き」というものがあります。

これは先ほど述べた「価値を外に求める」状態の時に、好きだと思ったものが多いのです。例えば、

親が良いと言っているから好き

こっちの方が給料が良いから好き

社会的に認められるから好き

人から称賛されるから好き

と言った「〇〇だから好き」という理由が付帯した好きなのです。

もう少し具体的な例を挙げると、

親という存在が、我が子の為を思って、一生懸命勉強するように促し、将来は医者になるよう指導して、子供もそれに応えようと必死で勉強をして、とうとう医師免許を取得し、医者なった。

が・・・・

何も面白くない・・・

病気の人間の相手をするのが嫌だ、お金には困らないが何も満足しない、診察していてもパソコンの画面ばかり見て、ちょっと話しを聴くだけで「ハイ、お薬だしておきますね~」と言うだけ。

というパターンがあります。

なぜこういうことが起こるかというと、この医者になった人は、確かに医者にはなれましたが、本人が本当に医者になりたかったどうかという議論は完全に無視されている。ということなのです。つまり親が「医者になるのが良い」と子供に吹き込み、純粋な子供はそうなんだと思い込んで、それを己が進むべき最良の進路であると判断したわけです。つまりそれを「好き」だと思ったわけです。

ところが、実際はそうではなかった・・・

とにかく理由はわからないけど、毎日イライラして仕方がない、見るもの、触るものが不快で仕方ない。という状態になってしまうのです。

これが「理由のある好き」がもたらす悲劇なのです。

 

しかし「大きな私として生きる小さな私」となった人は、自分の中にある「理由のない好き」の声に耳を傾けるようになります。

本当に自分が好きなコト、本当に自分がやりたいコトとは何か。というまさに自分を大切にする行動を取るようになるのです。

そして

子供の頃に時間を忘れて夢中になったこと、

誰に指導されるわけでもなく上手にできたこと、

とにかくやっていて面白く、考えるだけでワクワクすること、

お金や人からの称賛など関係なく、ただやっていて心地よいこと、

これらが、自分の中に「理由のない好き」として、厳然と存在することに気づくのです。

 

この気づきによって、それを徹底的に追求するようになります。

その第一段階としては、その「理由のない好き」を追求する行為は、先ほど述べた通り、自分という存在を大切にする行為の表れです。つまり私という素晴らしい存在をより愛し、理解しようとしている姿なのです。従って「追求」ですから、自分の中に取り込むことによって、満足を得ている状態となるのです。

そして、これが終わると

第二段階へとシフトします。同じように「理由のない好き」を追求するのには変わりがないのですが、この段階に入ると、自分が得た知識や技術を使い「他者」にその恩恵を波及させようしだすのです。中には本人が意とせずとも、勝手に周囲に恩恵を与えている場合もあります。この状態になると、与えることによって満足を得ることになるのです。

が・・・

この二つの状態は、一見すると向かっている意識が内と外という異なるベクトルのように感じます。しかし少し前に触れましたが、実のところ「他者は存在しない」のです。私、そして私以外のすべての「他者」と呼んでいる存在は、「大きな私」が「大いなる問い」の答えを探求するために、自分の中に作り出した物理宇宙(世界)に個別に分離させた「小さな私」であり、元をただすとすべて同じ「大きな私」というわけです。

つまり、この第二段階における「他者への恩恵の波及」という行為も、あくまでも「私」という存在に対して意識が向けられたものであり、やはり自分を深く愛し、理解するための手段であると言えるのです。

 

 

 

とっても長くなってしまいましたので、そろそろまとめますが、

「私はなぜ存在しているのか」という問いからスタートし、私とは何か、この一生に起こるネガティブな出来事の意味、そしてどのように生きるべきか。そうしたお話をすることができました。

いずれにしてもやはり一番大切なキーワードは「私は存在している」ということになろうかと思います。

それまで無かったものが、「有る存在」になったという、これ以上のない喜びを理解することによって、あらゆるものの見方が変わってくるのです。

 

そしてこのことから「大きな私」と「小さな私」の決定的な違いに気づくと思います。

それが・・・

「大きな私」には「有って当たり前」がない。ということです。

己が存在していることに、これ以上のない喜びを感じているということは、「自分が存在していることは当たり前である。」という思いを一切持っていないということになります。

しかし・・・

「小さな私」つまり私たちは「有って当たり前」が多いのです。

自分が今生きていることは「当たり前」という「おごりそのもの」が邪魔になり、「存在している」というこれ以上のない喜びに気づかなくなってしまうのです。そして価値や喜びは、自分の外にあるものと誤解し、さまよい続けてしまうのです。

 

最後に

ここに登場した「小さい私」や「大きな私」、「光」や「闇」と言った言葉やイメージなどは、冒頭に申した通り、この「真理の話」を伝えるための一方法に過ぎません。

また、このお話を言葉や文字として表現してはいますが、人によって受け止め方が異なるのはもちろんの事、文字にした時点で時間の経過と共に変容していくものなのです。(しかし真理は変わりません)そのことは十分にご理解下さい。

そして、ここに登場する用語はこの話をする上で、私が適当と判断されるものをチョイスしたのであり、必ずしもこの言葉が正しいというわけではありません。

特に「大きな私」というのは、私は解放カウンセラー仁さんから「アーキタイプ」という名前で教えていただきました。それをあえて今回は使用せず、話の流れから「大きな私」と表現したのです。

アーキタイプについてお勉強を深めたいという方は是非、仁さんの動画をご覧になってみて下さい。私もそこから学びましたので。

 

それではこの辺りで終わりにします。

ご質問があれば連絡下さい。