『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

極端な凸 極端な凹

こんにちは。

 

今日は格段と寒いです。

皆様、クリスマスはいかがお過ごしでしょうか?

 

 

さて・・・

私は小学校を卒業するまで水泳教室に通っていて、

そこそこ真面目に行っていたのですが、

確か中学生になるからという理由にならない理由で辞めちゃって以来、

あまりスポーツに親しむことはなく、体育の授業をやるくらいでした。

ところが、大学生になって急にスポーツ系のサークルに所属することになったのです。

その時の事をたまに思い出すのですが・・・

 

このサークルは自分の大学だけでなく、他の大学ともかなり密接に関わり、

一緒に活動をするようなちょっと変わった感じのスタイルでした。

同じような年代の学生がごった煮状態で、私もその中の一人として入ったのですが・・・

 

入った当初、御多分に漏れずというか、なんというか・・・

とにかく私は「浮く」んです。

上手く人と話せないし、話す相手もいない・・・

いつも隅っこの方でもじもじしていたり、遠くを眺めていたり・・・

 

それで、中に体育大の学生も交じっていたのですが、

一人の女の学生が、私を見るなり、

なんと「キモイ」と言い放ったのです。

特に何かしていたわけでもないのですが、話もしたようなことがない私に対して、「キモイ」と言ったのはかなり印象的でした。

 

もちろんその時は腹も立ちましたが、確かその女性は一つ上の先輩だったので、言い返すこともできずにそのまま放置して過ごしたと思います。

 

まぁいい思い出ではありませんが、これはどういうことなのだろうと分析してみますと、

彼女は長く体育会の世界で生きてきた人でした。ですから当然周りの人たちもそういう人が多かったのです。

一方私は高校は普通科ですし、部活もやっていない人間で、今では考えられませんが、体重も60kgあるかないかと言ったようなほっそい男子でした。

ですから、そうした「異質」な人間が、目の前で「うごめいている姿」を「キモイ」と表現したのだと思います。

 

つまりこれって、人間は「理解できないもの」を「気持ち悪い」と感じる生き物である。という表れなのです。

人間はその生命を維持保全するために、さまざまな感情を上手に使います。

彼女の例で言えば、「危ないものには近寄るな」という遺伝子レベルでの警告を受け取った。ということになります。

つまり「こいつは今まで見たことがない知らないタイプの人間だから近寄ってはいけない」というメッセージを受け取り、それを「キモイ」という言葉として表現したということなのです。

 

彼女はその遺伝子レベルの警告をそのまま受け取り、「キモイ」という言葉の「刀」をためらわず振り下ろした。ということになるわけです。

ただ、私は大学生の時にこうした経験をしましたが、これが小学生や中学生だともっとストレートに表現したり、歯止めがかからない場合もあるでしょう。

いわゆる「イジメ」という私たちが克服すべき課題と関係してくると思うのです。

ここでは「イジメ」の話は致しませんが、

やはりキーワードとなってくるのは「異質」ということになろうかと思います。

 

しかし、「異質」というのは決して悪いことではありませんね。

ところが、この国では「異質」というのは「悪い事」という思い込みが、

民族の精神の深い深い所に根をはっています。

それは長い年月をかけて培われたものです。

農耕民族として歩んできた私たちは、皆と同じ作業を同じようにすることが「良い」としながら発展してきたし、明治以降の学制も、やはり学校に同じ年代を揃え、同じ教育を施すというスタイルをとってきました。

それによってますます、皆と同じが良い。という思い込みが強化されていったのです。

 

そして、ここで一番大事なことは、

我が国において、

 

自分が周囲と比べて異質であることを、その人本人が「悪い事」だと思っている。

 

という問題があるわけです。

周囲に「お前は異質」=「悪い」と言われても、

当の本人が「悪い事」と思っていなければ、なんの問題もありません。

ところが、多くの場合はそうではなく、本人も自分は「悪い」と思い込んでいるのです。

 

しかしこれはただの思い込みであり、ちょっとドライな言い方をしてしまえば、周囲と違うことは「良い事」でも「悪い事」でもなく、ただ「違う」。それだけなのです。

 

それを勝手に、周囲や本人が、「悪い事」と意味づけをしてしまうことによって、さまざまな問題へと発展してしまうということなのです。

本当に極端な話ですが、人を殺して罰せられることもあれば、英雄視される場合もある。ということです。同じ人殺しには変わりないのに、その時々の環境や価値観によって、良い・悪いが180度違ってしまうということです。

 

ですから、少なくとも自分が「異質」な存在だと自覚し、それを「悪い事」と思いながら生きている人だけは、是非その意味づけを「良い事」に転換するようにしてもらいたいのです。必ずできますから。

先ずはその自分の「異質」な部分をよ~く見つめて欲しいと思います。

その「異質」な部分というのは、

周囲と比べて、あなたが言われなくてもできる事、

明かに周囲が持っていないモノ、

或いはあなたが極端に少ないと自覚しているため、逆にそれを得ようとする力が長けている事、

などである場合があります。

いずれにせよ、あなたがあなた自身を見つめた時、

極端な凸、或いは極端な凹に気づくはずです。

 

先ずはその把握に務めましょう。

そしてそれを今後どうするかじっくり考え、あなたの武器にしていけばよいのです。

ですからとにかく、「異質」である自分を「悪い」なんて思わないでください。

 

これだけははっきり言っておきますと・・・

あなたは「ラッキー」な人間なのです。

ラッキーであるが故の苦しみを体験しているのです。

解放カウンセラー仁さんの言葉を借りれば、あなたは「少数派」なのです。

ですから「多数派」が形成しているこの社会に、そもそも対応されない人間なのです。だから苦しいのです。

 

ではどうして人類は「多数派」と「少数派」がいるのでしょう?

それは

「多数派」は「人類の保存」

「少数派」は「人類の発展」

という大きな役割があるからです。

このお話はまた機会があれば致します。

 

何はともあれ、先ずは世界でたった一人しかいない、

しかも「普通」ではないラッキーな私たちは、決して自分を「悪い」とは思わず、徹底的に自分を観察して、愛してみるところから始めましょう。

 

自分の話から、結局人の心配になってしまいましたが、

何かの参考になれば幸いです。

 

それでは!