『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

大きな「気づき」

おはようございます。

 

今日もずいぶん気温が高い日になりそうです。

冬嫌いの私としてはありがたいですが、スキー場を経営している方や天然氷を製造している方にとっては困った冬のようです・・・

 

さて、今日もとっても個人的はお話しになります。

ただ非常に私にとって大きな気づき、ひょっとしたら人生における一番大切な気づきを得たので、備忘録もかねて綴りたいと思います。

 

その前に前振りを申しますと・・・・

実を言うと、私こうして色々とブログを投稿したり、ツイッターでつぶやいてみたりしていますが・・・

そのほとんどが、その場の思い付きで書いています。

読まれる方によっては、頭の中で色々と考えてから文章にしているのだろう。

と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、まったくその逆です。

書いている内に、今まで思いもしなかったようなことが頭に浮かんできて、それを単に文字化しているという感じです。

結構びっくりされるのですが、一番驚いているのは当の本人なのです。

「へぇ~こんな考えがあるんだ」「こんな表現もあるんだ」「結構いい事言うじゃん」

みたいに、自分が自分の頭の中にあったものが、文字として飛び出てびっくりする事が「山のように」あるのです。

ということはその逆の順序立てて文章を作るのが非常に苦手です。

大学で論文を書いていた時も、必ず目次を作って、章立てをして書いていくように指導されます。つまり設計図を書いてから家を建てろ。というわけです。

しかし私にはそれが全くできませんでした。完全に白紙の状態から、最初から最後までズラ~っと書き続ける。というのが私のやり方だったのです。

 

ただこれは私の感覚の話なのですが、普段から色んなものを見たり、聞いたりし、そしてそれらに基いて考えた自分の意見のようなものを、頭の引き出しにぎゅうぎゅうに詰め込んでおく必要があるように思えます。

そしてその引き出しの中の様々な意見や考えと言った「情報」がぶつかりあい、くっつき合い、溶け合っている内に、何かをきっかけに文章にする機会が訪れ、それがブログやツイッターなどと言った文章として、現れてくるのです。

ですから、その引き出しの中に詰め込んで、中でどうなっているかは、私自身も予測不能なので、一番びっくりするのは私自身というわけなのです。

 

前振りはここまでなのですが、

昨日私はこんなツイートを急にしました。

 

いきなりですが、大事な気付きなので申しますと… 私が神社や神道を好きであることは間違いありません。 ただそれと同時に弱い人間だから、この仕事にすがりついているのも事実なのです。 私は性質として弱いのです。そして闘いを拒んできました。しかし人間は闘う事でしか強くなれないのです。

 

つまり、私は常に神職という立場、神社という環境に保護されながら生きているのです。 残念ですが、これでは真の人間としての独立とは言えないのです。 保護されておきながら不満を述べるような人間の主張には重みはありません。 初めて私は「強くなりたい」と思うようになりました。

 

これは正真正銘、昨日私がつぶやいたものです。

しかし、これをつぶやいた時に、何か特別なことなんてありませんでした。

整体院の施術まで時間があったので、近くのスタバでお茶を飲んでいただけです。

ただ、ここ何年も私の頭の中には、ある言葉が横たわっていました。

それが・・・・

「私は弱い」です。

 

この「弱い」というのは非常に抽象的で、何に対して弱いかのが明確ではありません。

しかしこれだけははっきりしているのですが、私はとにかく「闘わない」という選択をし続けてきたのです。

このブログの「なんで神主になろうと思ったの??」

という投稿にも、その事実は明確に記してあります。

闘えば必ず負けるから(正確には「負けると思っているから」)

私はあの手この手で、身を守ったというわけです。

その一つが神職という職業の選択であり、他人への迎合や取り込みであり、皮肉や厭世観(世間嫌い)、他人からの評価が気になる等と言った形として現れたわけです。

つまり「今の私は自分は弱いという思い込み」が土台となってできているわけです。

 

引用したツイートが如実にその事を表していますが、

「私は常に神職という立場、神社という環境に保護されながら生きている」わけです。

そして、これはその人が本当に独立した人間であると、残念ながら言う事はできないのです。

確かに私は現在の神社や神社界に対して、危機意識を強く持っています。これは私の純粋な信仰に基づく憂いであり、決して悪いものではありません。

しかし、やはりどんな立場であれ、一人の独立した人間として物を言わなければ、伝わるものも伝わりません。

そしてここからが重要なのですが。自らの意見を主張すれば、それだけ他者からの攻撃にも晒されます。私がこのまま弱いままでいれば、反対の意見に怯え、また迎合し取り込むか、逃避するかと言った「対処療法」を取るだけとなり、根本的な問題の解決にもならないし、本当に自分の意見や主張を世に問うという目的はいつまで経っても達成する日はやってこないのです

 

「私は弱い」という言葉と、それにまつわる過去の様々なネガティブな出来事、そしてそれに対して私はここ数年、一つひとつ反芻してきました。またとても良い影響を受けている加藤諦三氏の著書にある言葉たちを噛みしめながら、それらを頭の中の引き出しに詰め込んでいったのです。

それが昨日突然ツイッターという形で文章として現れ、大きな気づきをもたらしたということなのです。

 

 

そう、私は強くなければならなかったのです。

そして、先に述べた通り「それにまつわる過去の様々なネガティブな出来事」の中の根本の根本。というのはもうわかっているのです。

私の人生における「最初で最大の挫折」

これが、その後の私の人生で、極めて重大且つその後の人格形成に多大な負の影響をもたらしています。

それが・・・・

「剣道教室」です。

 

幼稚園生の時、この剣道教室に入り、私は一か月くらいで辞めてしまいました。

答えは簡単です。

「怖かった」からです。

とにかく怖かった・・・。ずーっと泣いていました。竹刀同士が当たる音が怖くてどうしようもなかったのです。

数回通いましたが、行くのも憂鬱、行けば怖くて泣き通しという状態が続き・・・・

「もうムリですね・・・」

と、いつも厳しい剣道の先生に優しく抱きかかえられ、

私は剣道教室を退会したのです。

 

私は争うことがどうしてもできなかった。

それを怖いと感じて、泣くしかなかった。

そして、周囲の大人にも継続が不可能と判断され、

私は「闘いの場から逃げた」のです。

これは、私の『自分史』における、「弱さによる逃避」の原点なのです。

 

残念ながら、そんな私を主たる養育者を始め周囲の大人たちは、

適切に扱うことがありませんでした。

そして、その剣道教室に残った子供たちを中心に、彼らは辞めた私を容赦なくイジメたのです。

別にその事を責めるつもりはありません。人間は皆、未熟なのです。

そして、私はと言うと、私よりも弱い人間探しにいそしみ、そして機会を捉えては、虚勢を張るようになるのです。「弱い犬ほどよく吠える」のお手本です。

繰り返しますが、人間は皆、未熟なのです。

 

この出来事によって私は「自分はダメな人間である」という自己イメージを抱き、その後の様々な行いによって、よりそのイメージを強化、鮮明にさせて・・・

「己を破壊させていった」のです。

 

数年前、私は交友関係に大きな変化がありました。

それは同時に己の心を見つめる時の訪れでした。

そして、一つひとつ時間をかけ、自分の心の問題点と向き合い、格闘しました。

その原因がわからず苦しみ、分かったことによる苦しみを味わい続けました。

しかしこれらの全ては、「自分はダメな人間である」という自己イメージに基いて取られた、その後の様々な行いがもたらした結果によるものです。

つまり、そのその後の様々な行いを起こす原因である、あの剣道教室での挫折によって抱いた「自分はダメな人間である」という自己イメージを変えない限り、私は何度でも逃げ、何度でも闘わない方法を見出し、何度でも失敗を続けるのです。

 

ではこの長年培った自己イメージをどう変えればよいのでしょう。

それは至極簡単な事です。

引用のツイートの通り、「強い自分」になればいいだけなのです。

そして闘うことでしか、人間は強くなることはできないのです。

 

では、どのように私は強くなるために、闘えばよいか。

もうお分かりですね。

そう、また「剣道教室」に通えばいいのです。

 

実を言うと、昨日はこの気づきを得て、

一切の迷いもなく整体から戻った私は、近所の剣道教室の見学に行きました。

来週の金曜から小学生に混ざって稽古を始めます。

30数年の時を経て、私はようやく己の特性である「弱さ」と向き合うのです。

この特性の克服作業は、恐らく死ぬ日まで続くでしょう。

でも、ようやくベクトルが正しい方向へと向いたのです。

長かった。

しかしこれからです。

でも今、なぜか妙にスッキリした気持ちです。

いちいち知恵を巡らす必要なく、ただやればいいだけだからでしょう。

 

 

私の話でしたが、何か皆さまにも参考になるようなことがあればと思います。

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。