『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

私たちは所詮「人間」です(上)

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

境内の木瓜の花がもう咲き始めました。

桜が咲くのも例年より早いかも知れませんね。

 

 

今日はそんな「季節」のお話です。

 

私たち人間はそもそもどんな暮らしをしていたか・・・・

と言えば、森の中で暮らしていたわけです。

確かに人間は高い知性を持っていて、他の動物とは異なる暮らしをしています。

でも所詮、地球という惑星に住む哺乳類の一種に過ぎません。

 

しかし、ある時我々の祖先は、森を出て暮らすようになりました。

集団でムラを作って、狩りをしながら暮らし始めたわけです。

そして、今日では大きな街、都市を築き、文明を謳歌させています。

 

そして、今日では

「自然」と「街・都会(人が住む場所)」と区別をするようになりました。

元々、私たちは森の中(自然の中)で、自然の一部として暮らしていたのに、

そこから離れることによって、自分たちの住む空間と森や海とを区別するようになったのです。

 

しかし、冒頭に述べた通り、

私たちがどんなにあがいても、所詮人間はただの哺乳類という動物です。

私たちが現在「自然」と言っているものに、かなうはずなどないのです。

森を切り開き、街を作って、自分たちに住みやすいようにしたとしても、

それは自然と相対するものとは言い難く、

あくまでも自然の中に作った「空間」でしかないのです。

 

そして、これはこの「身体」にも言えることです。

この人間の身体は、当然ですが人間が作り上げたものではありません。

人知を遥かに超えた、奇跡と奇跡が重なりあって今こうして、

人間の身体というものが出来上がり、今日までそれが受け継がれています。

誰かが例えていたのでずが、

人間の身体は、精緻な腕時計の部品をすべてバラバラにして、それを箱に入れて振り続け、再び元の時計となって針が動くくらいの奇跡以上の奇跡が重なって出来上がっているとの事です。

 

ですから、動物の毛が季節によって抜け替わるように、

鳥や魚が季節によって場所を移動するように、

虫の活動が季節によって変化するように・・・

人間だって、本当は季節によってこの身体、そして同時に「精神」も大きな変化があって当然なのです。

 

しかし・・・

私たちが手にしている高度な文明はこうした自分の身体や精神と季節との関係を鈍感にさせてしまうのです。

 

雪がしんしんと降る真冬に、Tシャツ一枚になって、家の中でスイカをかじりながら、南の島が舞台の映画を観るということだって可能です。

今のは極端な例ですが、実は私たちは日々こうした季節とは真逆の事を知らず知らずの内にやっています。一番身近な例が食べ物です。当たり前ですが、食べものには「旬」があります。この旬は季節と密接に関係していることは誰でも理解しています。

しかし、私たちはハウス栽培、高原栽培、輸入、養殖、品種改良などなど・・・・

あらゆる方法で、さまざまな食品を一年中食べています。

つまり、食べ物で季節を感じることがなくなった。と言ってもいいわけです。

 

ただでさえ、人間だって本当は季節によって身体や精神に変化があるのに、こうした高度な文明によって、よりその変化や影響に気づけないようになってしまい、

結果として「自然」と人間は相対するもの。というある種の【傲慢】を生むようになってしまうのです。

 

 

そして、本当は自分の身体や精神が、季節と共に微妙に変化しているにもかかわらず、それに気づかない生活を何年も何年も繰り返すことによって、

大きな身体的・精神的不調の原因となっている場合があるのです。

 

では、具体的にどうすれば、私たち人間は季節と共に生きることができるのでしょうか?

まさか再び森へ戻り、原始の暮らしをするわけにはいきません。

方法はちゃんとあります。

その事については、次回に譲りたいと思います。

お楽しみに。

 

 

 

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。