『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

あなたは誰の真似をした??

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

三連休はいかがお過ごしですか?

イベントの中止が相次ぎ、神社でも祭典の中止や縮小などが検討されています。

 

 

 

さて

今日はこんなお話。

 

人間というのは、とにかく「真似っ子」です。

誰かの真似をしながら育っていきます。

「育っていく」という言葉から、子供の話のように聞こえるかも知れませんが、違います。大人も同じように、他人の真似をしながら日々生活をしています。

 

「真似」というのは、何も仕草や振る舞いだけのことを指しているわけではありません。言葉や考え方、ものの捉え方なんかも、どんどん真似をしていくのです。

 

ただ、この「真似」ですが、目の前にあるもの全てを真似するわけではありません。

 

ちゃんと選んで真似をしています。

ではどのように、真似をするか、しないかを判断しているかというと・・・

 

「好き」か「嫌い」か「どうでもいい」

 

この3つです。

私たちは常に、目の前にあるものをこの3つに分けています。

そして、特に「好き」と判断したものをどんどん取り込んでいきます。

 

小さい男の子が、ナントかライダーの「真似」をしています。

当然彼はこのナントかライダーが「好き」だから、そうしているのです。

逆を言えば、「好き」だから「真似」をしているわけです。

 

小さい女の子が、おままごとでお母さんの「真似」をしています。

これも同じく、「好き」だから「真似」をしているのです。

 

しかしこうした「感性」に基づいてジャッチをした結果に取り入れた「真似」もありますが、これとは別の「真似」もあります。

 

例えば・・・・

 

「バカ」という言葉。

 

主に相手を罵るために使う言葉です。私たちは頻繁にこの言葉を使います。

こんなネガティブな言葉など、「真似」する必要ないのに、多くの人が使っています。

なぜでしょう??

答えは簡単です。

「人を罵るのに「便利」だから」です。

誰かがこの言葉を使って人を罵っている姿を見て、人を罵るのにはこの言葉を使用するのが良いんだぁ~と判断します。つまり、これも「好き」なものの中に入ってしまうのです。

このように「バカ」という言葉自体は良い言葉(好き)ではないのに、使い勝手が良いので(好き)となり、その人の人生に定着していくのです。

 

 

 

さて、以下は私のお話になりますが・・・

私は以前のブログにも書きましたが、大学を卒業しても同じ大学の大学院にかなり長い時間在籍していました。

修士は「神道学」、博士は「宗教学」を専攻していました。

今の神社に奉職しながら研究を続けていましたが、

普通の人よりも学生時代が長いですし、専攻している分野も特殊と言えば特殊なので、珍しがられることが多かったです。

すると、そんな私に対して、他人はこんな言葉をかけてくれます。

 

「スゴイ立派な研究をされているんですねぇ」

「ずっと勉強を続けていて偉いですねぇ」

「勉強が好きなんですねぇ」

「仕事もして、勉強もして、ほんと素晴らしいですねぇ」

 

私にこうした声をかけてくれる人達は、決して嫌味で言っていたり、お世辞で言っているのではありません。本当にこうした言葉で私を「褒めて」くれました。

こうした人たちに対して、私はいつも以下のような言葉で返していました。

 

「こんな研究をやっていても誰も褒めてくれません」

「こんな研究は社会の何の役にも立っていません」

「いつまでも学生でいてみっともありません」

「仕事と研究の二足の草鞋で、全て中途半端です」

 

なぜ、他人がせっかく褒めてくれているのに、素直にそれを受け取らず、却って自分を貶め、蔑み、低く評価するような対応を取ってしまっていたのでしょうか??

やはりこれも「真似」が大きく関係しています。

 

私の主たる養育者(親)は、極端に子供(私)が「調子に乗る」ことに良しとしませんでした。そしてこれは、私の親もまた、その養育過程において、過度な遠慮と謙遜を身に着け大人になったからでした。

 

例を挙げると・・・

みなさんも経験があると思いますが、小学2年生になるとまず九九を習います。

私は小学1年生から2年生になる春休み期間(ちょうど今の時期)に、新学期を迎える前に予習として九九を勉強したのです。

そして「1の段」を完全にマスターすることができ、とても自信に満ち溢れていました。

ある時、母親と母親の友人が談笑している所で、私がその母親の友人に九九を披露することになったのです。

そして私は得意になって「1の段だけ」を暗唱しました。

母親の友人は「スゴイ!」と褒めてくれました。

ところが、私の母親は・・・

「そんな1の段だけできたって、誰も褒めてくれないよ」

と言ったのです。

 

 

さぁ、みなさん。もうお分かりですね。

大学院まで行き、勉強・研究を続けている私を褒めてくれる人に私は・・・

「こんな研究をやっていても誰も褒めてくれません」

と言って返していました。

そして、この言葉はもう何十年も前に母親が私に謙虚であることを求めて、諫めた言葉とそっくり、どころか全く同じです。

 

つまり私は謙虚であることが良いということを母親の言葉から知り、

そして、それを表現するために「こんなの誰も褒めてくれない」という言葉を「真似」したのです。

つまり、自分を蔑むのに便利な言葉(好き)と判断したということです。

しかし、残念ですがこれは「過度な謙虚」と評価せざるを得ません。

小学2年生を目前とした小さな私に対して、掛ける言葉としては不適切でした。

自信を喪失させるだけだからです。

 

このように先ほども申した通り、私たちは常に3つをジャッチしています。

その中にはネガティブなものなのに、それを「良い」と判断し、取り入れてしまう場合もあるのです。しかしその取り入れたものは本質的にはネガティブなものですから、私の場合で言えば、この言葉使い続けることによって、自分を蔑み続けてきた、ということになるのです。

 

これは子供に限らずそうですから、普段からの触れる「情報」には細心の注意を払いましょう。

汚い言葉が飛び交うテレビ番組、暴力シーンの多い映画、粗野な人が集まる場所、匿名をいいことに好き放題書きなぐるインターネットの世界・・・

こうした影響を間違いなく私たちは受けてしまうのです。

しかしその一方で

美しい言葉で書かれた文学や詩、繊細な絵画、洗練された音楽、他者を思い遣る人達との付き合い・・・

こうしたものに触れることによって、確実に私たちは影響を受けそれを「真似」していくようになるのです。

 

 

今日は人間みんな真似っ子というお話でした。

何かの役に立てば幸いです。

それでは今日はここまで、

最後までお読み頂き、ありがとうございます。