「祭り」の語源と超大事なお話し
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さて
私たちは以下の言葉をよく使います。
「祭り」
です。
神社を一言で説明するとしたら、「祭りを行う場所」です。
神社では、豊作を祈る祭りや収穫に感謝する祭りを行いますし、神社では行いませんが、神道のお葬式だって神葬祭というお祭りの一つです。
でも、一般の方々がイメージされる祭りというのは、
神輿が出て、露店が並んで、ワイワイすることだと思います。
ですから、この祭りという言葉はどちかと言うと、
「お祭り騒ぎ」と言った感じで、賑やか、騒々しさ、無礼講・・・
と言ったニュアンスで捉えている方がほとんどです。
故に、イベント名にもよく使われていて
桜祭り、チューリップ祭り、菜の花祭り・・・などの使われ方をしています。
或いは、商店などではセールスしたい商品を冠して
お魚祭り、靴下祭り、パン祭り・・・などのように使われています。
せっかくですから、この「祭り」という言葉の語源(諸説ありますが)を、この機会に訪ねてみましょう。
以下に私の採用する祭りの語源の説明と補足をしてみたいと思います。
神奈川県の大磯町では毎年5月に「国府祭」
また千葉県の館山市では毎年9月に「八幡祭」
というかつての「国府」と深い関係を持つお祭りが行われます。
いずれも「こくふさい」「はちまんさい」と呼ばれるのですが、別の言い方というか、古い呼び名は「こうのまち」「やわたんまち」と言います。
もうお分かりの通り「祭」の部分を「まち」と呼ぶのです。
この「まち」を漢字にすると、「待ち」つまり「待つ」になります。
実は「お祭り」の語源は「待つ」だったわけです。
では一体何を「待つ」のか。
それは当然、神様がいらっしゃるのを待つわけです。
私たちは今、神社という「建物」に神様がいるから、いつも拝むことができます。
しかし大昔は違いました。
神様は普段は海や山にいらしたり、祖先の霊(祖神)も人間たちが住む村や街から離れたところにいると考えられてきました。
ですから、神様のお家(宮や社)というのは無かったのです。
山のふもとや、海を見渡せる場所など、清浄な場所を「禁足地」として定めて、例えばこれから農作業を始める春先や、収穫が終わった秋口に、神様をその場所にお招きして、ご馳走を並べ、祝詞を挙げて、舞を踊って、みんなでご飯を食べたのです。
ですから、そんな特別なハレの日を、みんなで「待つ」から、
このように神様の御来臨の日を「まつり」というようになったと言われています。
※ちなみに、だから神社には木々が生い茂っていると言われます。つまり「禁足地」ですから普段入ることが許されません。ですから木々が勝手に生えてきたというわけです。それが後々「鎮守の森」と呼ばれるようになったわけです。ですから神社は積極的に木を生やしているわけではなく、むしろただ手を付けられなかった結果として森になった。ということらしいです。
さて、ここからは私の持論です。
結論から申しますと、
人であれば、その人生を、
神であれば、そのお働きを、最も狂わせるものが、「無価値感」です。
この「無価値感」は様々な手法や手段を用いて感じさせられる感情です。
その中でも最たるものが・・・
存在の「無視」や「放置」です。
簡単な言い方をすれば「̪̪シカト」や「ほったらかし」という訳です。
逆に
「私(達)はあなたの存在を認めています!あなたは重要な存在です!」
と相手に伝えることが、実はあらゆる物事の基本であり、精神的に苦しい人であれば、何よりの「薬」なのです。
ですから、先ほども記した通り「祭り」というのは、ご馳走をお供えし、祝詞を奏上して、舞を舞って・・・こういう行為を通じて、神様という存在に対して、人々が様々な刺激を与えているのです。
神主が奏上する「祝詞」というのは、祈願文ではありません。
読んで字のごとく、「祝いの詞(ことば)」です。
何を祝っているのかと言えば、「存在を祝っているのです」
「あなたは素晴らしい、あなたは立派です」と神様を称えるのが、祝詞なのです。
つまり、そんな重要なあなたを、私たちは無視したり、ほったらかしには致しません。
ですから、どうかこれからもこの村をお守りください。と初めてここで祈願ができるのです。
人間も神も、放っておけば「無価値感」を感じて、悲しみ、やがては荒れます。
本質は何も変わらないのです。
私たちは「存在している」それだけで、オールOK!
それだけで、お祝いなのです。
今日は日本の「祭り」という言葉から、色々と考えてみました。
何かの参考になれば、幸いです。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。