「私はすごい!!!」
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
いよいよ東京では週末は不要不急の外出を控えるよう指示がありました。
自分の為、家族の為、みんなの為にできる事を致しましょう。
さて、話題になっているというか、個人的に気になったので、
ちょっとタイムリーなお話を致します。
少し難しいかも知れませんが、実はすごく大切なお話しなので、
ちょっと頑張って読んでみて下さい。なるべく平易にご説明しますので。
学習院大学国際社会科学部の卒業生の謝辞についてです。
以下のリンクの【卒業生代表による謝辞】の【謝辞①】です。
そんなに長くないので、さらっと読んでみて下さい。↓
https://www.univ.gakushuin.ac.jp/iss/news/20200320-1.html
昨日のブログにも書きましたが、私たちは今、肉体を有した「分離」した存在です。
逆にこの肉体を有する前は【元型(アーキイプ)】という「統合」した存在でした。
そしてまたこの肉体が滅びれば、再び【元型(アーキイプ)】へと戻っていくのです。
【元型(アーキイプ)】は自身の中に【物理宇宙(世界)】を作りだし、そこへ「分離」した私たちのような「生命」を送り込んで、それぞれの一生を通じて「分離ならでは」の経験を積み、肉体が滅び再び【元型(アーキイプ)】へと統合されていく時、その「学び」を持ち帰ります。そして【元型(アーキイプ)】は「自分とは一体何者なのか」という「大いなる問い」の答えの一つに加えるのです。
※この辺の話は以下の投稿に詳しく書かれていますので、時間がある時にお読みください。
命あるものに捧げる「真理の話」(上)
命あるものに捧げる「真理の話」(下)
今私たちが「分離」しているのも、元々そして再び「統合」しているのも、良いも悪いもありません。
しかし、それぞれに「喜び」というものがあります。そして例えば「分離」している今でも時として、一時的に「統合」することもあります。
例えば私の専門?である「お祭り」がその一つです。
皆で同じ衣装を着て、声を揃えて神輿を担ぎ、山車を曳き、木遣りを唄い、同じ振り付けの踊りを踊る・・・等。
皆普段はバラバラなのに、このように祭りの時だけ「統合」します。
これを私は「神振統合」(かみふりとうごう)と呼んでいます。
この他にも「合唱」や「ダンス」もそうですし、こうした決まった歌や所作を揃える事以外にも、チームで何かを作り上げる、或いは極端な話「戦争」だって一時的に多くの人たちが「統合」するものなのです。(ちなみに日本の左翼的思想を持つ人の嗅覚はここに反応します。)
このように「分離」していても「統合の喜び」を知る事ができるのです。
そして、当然ですが、これは自分独りでは感じることができない喜びです。
必ず自分とは別の人間という存在が必要になってきます。
ということは自然とその喜びを感じることができるのは「相手がいるから」という感謝の気持ちが伴うものなのです。
しかし「神振統合」のような統合は、今いる【物理宇宙(世界)】では一時的なものです。だから祭りは「非日常」なのです。
ですから、私たちは普段は「分離そのものの喜び」を味わっているのです。
例えば、赤ちゃんが両手を両足をバタバタさせて喜んでいるとします。
これも「分離の喜び」です。
自分の意思で、自分の身体を、自由に動かすことができるという素晴らしい喜びを味わっているのです。
そして、私たちは自分のやりたいことを自分で決め、知識を求め、技術を磨き、そして自分の満足いく結果を追求し、そしてその結果を喜び、誇りに思うこともあるでしょう。
これは「自分」という「分離」した存在の能力を、自分の力で最大限に引き出し、その結果に自分で満足しているということであり、まさに「分離の喜び」そのものというわけです。
これを繰り返していると、自分という存在が絶対的な存在のように思えてくるのです。
だって、自分が頑張り、自分の能力に自信を持ち、そして自分の納得いく結果がついてくるわけですから。
意識が私という分離した存在だけに目が向き、
「私ってすごい!!!」となるのです。
これが、この【謝辞①】の全体に宿る精神です。
こうした人の特徴は以下の通りです。
何かに秀でています。
無駄を嫌います。
群れを嫌います。
「神振統合」のような集団で何かをすることをバカにします。
「くだらない、くだらない」と他者の言動を一刀両断します。
二言目には他人の事を「バカ、バカ」言います。
感謝に乏しいです。
今の日本ではこうした人たちが「成功者」のモデル例となっています。なぜなら今の日本(戦後日本)は「分離優位」な空間だからです。
(↑こんな感じの有名人いっぱい思い浮かぶと思います。)
逆に敗戦前は「統合優位」の空間でした。戦後は戦前を否定した空間ですから、当然今は「分離優位」なのです。
そしてパソコン・インターネットの普及により、その傾向はますます加速しています。これは時の流れとして仕方ないことです。でもまた必ず日本は「統合」へと向かいます。私たちはその中間的国家を目指すべきなのです。
ということで、お分かりの通り、この謝辞を書いた彼女は「分離の喜び」を体いっぱいで感じているために、こうした謝辞になったというわけです。
しかし、先ほど「自分という存在が絶対的な存在のように思えてくる」と記した通り、この「分離の喜び」による、自分という存在への絶対視は「錯覚」です。
この【謝辞①】で言えば、まず漢字やひらがな、日本語という言語の存在。これらがあって始めて、自身の気持ちを伝えられているという事実に感謝しなければなりません。これを何かの紙に書いたのであれば、その紙を作った人、運んだ人、そのトラックを作った人、そのトラックが進む道を作った人、その紙の元となった木、その木を切った人、運んだ人・・・・・・・・・・。
と感謝するべき人や対象は山のようになり、その内一つでも欠ければ、彼女は自分の気持ちをこの【謝辞①】として表現することはできなかったのです。
そして「そんな事は当たり前の事だ!」と言った瞬間に・・・・
「分離の喜び」は立ちどころに「傲慢」へと変化します。
自分の能力に自信を持ち、それを誇り、喜ぶことは全く間違えではありません。
それこそ、私たちが今「分離」しているからこそ味わえる喜びです。
しかし、それはすべて「繋がり」によって成立しているのです。
「分離」しているけど、見えないけど、一つひとつが支え合い、バランスをとっているのが、この【物理宇宙(世界)】なのです。
そして、その見えない支え合いに気づき、心の中で静かに「感謝」をすることによって、より自分という存在の力アップさせ、今度は他者を支える存在へと成長していくものなのです。
この【謝辞①】を書いた彼女を始め、全ての卒業生のみなさん。
ご卒業おめでとうございます。
人生の門出です。どうか自分を大切にして下さい。
今日本を始め世界は大変な局面を迎えています。
あなた方若い力が必要です。その力を存分に発揮して下さい。
私も頑張ります。
そして、一緒に良い日本を作って行きましょう。
できます。必ずできます。私たちはつながっているのです。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。