『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

生まれ変わりの話(第3章 大叔父の最期)

前回の続きになります。

こちらの記事を読む前に、まだ前の記事を読んでない方先に↓

生まれ変わりの話(第2章 ようやく身軽になって)

をお読みください。

 

 

本当に親切な司書さんがいる靖国神社の「偕行文庫」という図書館で、

前回登場した女性のお父様の戦歴を調べていました。

そして、ふと思い出したことがありました。

 

「そう言えば、私の親戚に戦死した人がいたな・・・」

 

そうです。子供の頃に欲しがった「勲章」の本当の持ち主である、

私にとっては「大叔父」に当たる人の事です。

日本の近代史はずっと興味を持っていましたが、

すっかりこの大叔父の事は忘れていました。

 

靖国神社には「祭神調査」と言って、神社に依頼するとご祭神に関する記録を見せてくれます。

そこで、ちょうどよかったので、初めて私はここで「大叔父」について祭神調査を依頼したのです。

 

でも「南方のどこかの島で亡くなった人」

というくらいの情報しか私も家族も親戚も知らなかったので、

きっとそんな詳細な記録は残っていないんだろうなぁ~

と思いながら待っていました。

 

15分くらいすると、一枚の紙が渡されました。

そこには、所属部隊、階級、戦没地、戦死した場所がちゃんと記されていました。

私の「大叔父」はフィリピンのルソン島のアシンという山奥で戦死していたのです。

 

そしてそれを知れただけでも感激だったのですが、

所属部隊を確認した司書さんが、関係する書籍を何点か書庫から出してきてくれました。

市川嘉宏という方が書かれた

『バギオの灯 北部呂宋戦記』

『北部ルソン戦記 盟兵団 独立混成第五十八旅団激闘の戦史』

というものがありました。

 

読み進めていくと、なんとこの本の著者である市川氏は、

私の大叔父の最期の最期まで行動を共にしていた方だったのです。

 

昭和20年(1945)1月9日、米軍はフィリピンルソン島のリンガエン湾に上陸しました。

日本軍はこれに対して必死の抵抗をします。私の大叔父も砲兵としてこの戦いに参加していました。しかし日本軍は後退を余儀なくされ、山深くにまで陣を引きます。

 

ジャングルに潜み、敵の基地へ夜襲をかける作戦を繰り返し行っていたようです。

3月下旬になると、大叔父はバギオというフィリピンの軽井沢と言われる街から少し離れたアシンという地域の山中に身を隠しながら戦闘を継続していたようです。

 

そして4月に入り、敵の迫撃砲陣地を破壊するため、残存兵力を集めます。

そこに抜擢された一人が大叔父でした。

そして、その指揮を執ったのが、この本の著者である、市川氏だったのです。

 

この作戦は「乾坤作戦」と名付けられ、5名程で決行されたそうです。

敵の迫撃砲陣地はアシン街道のガリアノという場所の北方橋梁付近にあったそうです。

ルンボイ(ロンボイ)山という山の尾根を伝い敵陣地を目指し、

遂に目的の場所に到達し、仲間と共に敵陣地に対して攻撃をしました。

 

敵からの反撃もあって辺りは混乱し、弾の撃ち合いになったようです。

その時、一人でどんどん先に行って、敵陣に突っ込んでいったのが大叔父だったのです。

 

市川氏が退却を命じ、自身も退こうとした折に、

叫び声が聞こえたそうです。

 

 

「小隊長殿~!」

 

 

と。

これが私の大叔父の最期の言葉でした。

市川氏と他の仲間たちが集合し、状況の確認をすると、やはり私の大叔父は帰ってきませんでした。

仲間の一人が「(大叔父)だけ一人で前へどんどんいっちゃって、マンゴーの木の下で敵を踏みつけたようで、殴り合いのようになっていました。」と状況を語りました。

どうやら、そこへ機銃掃射が掛けられ、最後に小隊の隊長を呼んで亡くなったというわけです。

 

まさに壮絶な最期だと思います。

私は期せずして、大叔父の最期を知ったのです。

それに将校ではなく、一兵士の最期がここまで詳しく伝えられているのも、とても奇跡的なことだと思います。

私は本当に感激して、家路につきました。

 

 

今回はここまで、

次の回でまとめます。