あなたが持っているソレ
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
昨日、一昨日と「生まれ変わり」についての記事を4本続けて投稿したからなのか、理由はわからないのですが、このブログに起こし頂ける方が増えてありがたく思っています。これからも頑張って記事を書いていきたいと思います。
私とあなた
という私にとって、とても重要なメッセージを込めた記事があります。
この日本を知る上で、そして自分という人間を知る上でも、ヒントになる記事だと思っています。もしまだお読みでない方はお読み頂けると幸いです。
この記事の中で、日本という国を構成する「要素」は
「国土」・「天皇」・「国民」・「神道」であると述べました。
これがこの国の「国体」であり、このうち一つでも欠ければそれは別の「何か」になるわけです。
今回は改めてこのうちの一つである「神道」について語りたいと思います。
他の記事でも語っていますが、今日はもう少し詳しく考えてみます。
私はこの日本という国を構成する「要素」は先に挙げた4つであるとしていますが、実はもう少し丁寧な表現をすると3つにまとめられます。
「国土」・「天皇」・「(和覚を備えた)国民」です。
「神道」という言葉が消えました。
というのも「神道」というと、当たり前ですが誰だって、あまたある「宗教」・「信仰」の中の一つの事を指していると感じるからです。
つまり、例えばこの時点でこのブログをもしお坊さんや神父さんなどがご覧になったら・・・
「ホラ、また神道(神社)を私たちと違って特別扱いしている。」
「国と結びついて、また悪さをし始めかねない。」
とおっしゃるかも知れないからです。(宗教者じゃなくても思うでしょう。)
しかし、私の言う「神道」というのは、特定の「宗教」・「信仰」の事を言っているのではありません。ですから上記のような誤解を招くので、あえて「神道」の文字を消したのです。
その代わりに「和覚」という聞きなれない言葉を登場させています。
それまでは「神道覚」と言っていましたが、これもやめて「和覚」に変更しました。今日はこの「和覚」について考えたいのです。
いきなりですが
ドランボールというアニメをご存知ですか?
私はこのアニメが大好きなのですが、知らない方でもなんとなくはご存知かと思います。かなり有名なアニメなので。
「孫悟空」という主人公が、ドランボールという不思議な玉を7つ揃えると「神龍」が何でも願いを叶えてくれるという物語で、途中色んな仲間と出会い、敵が現れては、これを倒していくという内容です。
「孫悟空」は闘うごとに強くなっていき、修行を重ねていくのですが、やがてカリン塔という高い塔の上に住んでいる仙猫のカリン様という「神」の元修行をします。そしてその塔のさらに上には「神様」が住んでいて、また修行を積みます。
地上では「ピッコロ大魔王」という悪いヤツいて、実はこのピッコロはその「神様」の悪い心の表れなのです。神様とピッコロは一心同体で、どちらかが「死ぬ」と片方も死んでしまいます。
そして悟空は遂にピッコロと決闘し勝ちますが、悟空はピッコロを殺さず、むしろ助けます。それを間近に見た「神様」は、悟空に対して「おぬし(悟空)に私に代わって「神」になり、天界に住め」と勧めます。しかしこれを悟空はキッパリ断り、チチという女性と結婚して、山奥で静かに暮らし始めます・・・・」
この後子供(孫悟飯)を授かり、また別の物語が展開しますが、この辺で一旦止めにします。
さて、このドラゴンボールのあらすじを、すごく簡潔にご紹介しましたが、
この話を何の疑問も持たずに、受け入れたのであれば、
あなたにちゃんと「和覚」が備わっていることになります。
ていうより、ほとんどの方がそうだと思います。
神龍(シェンロン)という、神の龍がいる事。
カリン様という神がいる事。
そして更に別の神がいる事。
その神に悪い心があり、それが別人格として登場する事。
神が死ぬと言う事。
悟空という人間が神になる資格があるという事。
どうですか?
何回「神」が出てきましたか?
猫の神なんてオカシイと思いましたか?
神に悪い心があるなんてオカシイと思いましたか?
神が死ぬなんてオカシイ!と思いましたか?
人間が神になるなんてオカシイと思いましたか?
恐らく思わなかったはずです。
なぜならあなたに「和覚」が備わっているからです。
「八百万の神」
という感覚が、あなたの心の中に、備わっているから「オカシイ」と思わないのです。
神様はたった御一人しかいない。という宗教、そして風土の中で暮らす人からすれば、その信仰心に照らしてこのアニメを見れば「オカシイ」と思うでしょう。しかし私たち日本人にはそれが無いのです。
ご存知の方はこのドラゴンボールはまだまだ物語が続きます。
閻魔様、界王様、界王神様、ビルス様・・・・全王様。
と次々に神様が出てきます。
しかしそれに対して「オカシイ」と言う人がいないどころか、なんの疑問も持ちません。私たちに「和覚」があるから当然なのです。
この「和覚」というのは「神」という宗教的なものだけに向けられる感覚ではありません。もっと分解して説明すると・・・
「それぞれが持っている良い面を認める力」
ということなのです。
例えば繁華街を歩いてみましょう。
一つひとつの建物は色、形、高さなど、何もかもバラバラです。
出ている看板もぐちゃぐちゃ、上を見れば電線が張り巡らされています。
しかし、誰も文句を言いません。
これが悪いだなんて、まったく思いません。
せいぜい「騒がしいなぁ~」くらいです。
これが例えばヨーロッパであれば話は別です。
建物が石造りで統一されていて、石畳が敷かれて街全体としての調和が重んじられます。日本の繁華街のようなぐちゃぐちゃ感はありません。
なぜこんな事が起こるのでしょう。
それもやはり「和覚」です。
日本人は建物一つひとつに良さを見出しているのです。
それはそれで良い。と・・・
そして繁華街の悪い面である「騒がしいなぁ~」という所に気づきつつも、楽しい思いを提供してくれるという良い面にもちゃんと気づいている、むしろそっちの方にこそ意識が向いているから、文句が出てくることもない。というわけです。
こうした「和覚」が日本人一人ひとりに「大なり小なり」備わっているからこそ、日本はここまで発展したのです。
つまり、大陸の文化をたくさん取り入れつつ、オリジナルなものへと深化させてきたのです。
歴史の授業で「律令制」という言葉を習いますね。これは確か「隋」という国の皇帝が作り出した国家を運営するシステムです。
日本は律令制を始め、あらゆるものを輸入します。「元号」だってその一つで、今でも私たちは使っていますね。
しかし・・・「宦官」という制度は日本に輸入されましたか?
去勢した男性が宮廷に仕える制度です。これは中国では紀元前の昔からあり、最後の清王朝が崩壊するまで、それこそ2000年を遥かに超えて存在した制度です。大陸から多くを学んだ私たちの祖先が、この制度を知らないハズがありません。
しかし、私も日本史は大好きですが、一度も日本で「宦官」が登場したという話を聞いたことがありません。ひょっとしたらあるのかも知れませんが、少なくとも私は知りません。
これも答えは簡単ですよね。
「日本になじまない」と判断したからです。
つまり、和覚に照らし合わせても「良い面」を見出すことがどうしてもできなかったから。ということです。
このようにして、私たちは自身に備わっている「和覚」をフル活用しながら、この国を発展させていきました。是非身の回りを見渡して見つけてみて下さい。私たち日本人が、外国から取り入れ「日本風」にしたものがたくさんあるはずです。
そしてこの感覚を是非それぞれの人生に活かして欲しいのです。
一つひとつの持っている良い面、悪い面を見出し、それを自分の人生にどう活かすか。ということを意識的に行って下さい。
今まで無意識的に行ってきたことを意識的にすることで、得られる効果がより高まると思います。
今日は私たちに備わる「和覚」について語ってみました。
何か参考になれば幸いです。
それではここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。