『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「私は〇〇である」ってそれホント??

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

今日は本当に爽やかに晴れています。

お出かけ日和なのに、自粛で残念ですが、仕方ありませんね。

 

以前別のサイトに書いた記事なのですが、そのサイトがお引越しをして、書いた記事が見られないので、また改めて書いてみたいと思います。

ちなみにそのサイトとは『YOROSOI』というサイトでネガティブ吐き出し専用SNSサイトです。女性限定ですが、興味のある方は登録してみて下さい。

https://namisapo.com/new/

ちょっと今日は長い記事です。休み休みお読みください。

 

 

 

さて

人間は誰しも

自分の事を「私は〇〇である」という自己イメージを持っています。

自己イメージというと難しく聞こえるので、別の言い方をすると「ラベル」を貼っています。

 

例えば「名前」もその内の一つです。「山田太郎」「山田花子」という名前のラベル、つまり「名札」を胸元にペタッと貼っているのです。

 

或いは「肩書」もそうです。私で言えば「神主(神職)」というラベルを貼っています。その他にも「政治家」「サラリーマン」「大工」「消防士」「社長」「部長」・・・というのも全部「ラベル」です。

 

また例えば「私は明るい」「私は暗い」「私は貧乏」「私はコミュ障」「私は弱い」「私はポジティブ」・・・みたいなものも「ラベル」です。

 

そして以下にとても重要なことを「2点」述べます。

①なぜラベルを貼るのか?

ズバリ答えを申します。それは「私が私を理解するため」です。

私たちは自分の事が自分でよくわかりません。

ですから、「自分で決めつけたり」「人から言われたり」「周りと比較すること」によって、「私は〇〇である」と自分を理解しようとするのです。ましてや子供であれは「あなたは〇〇だね」と言われれば、そのままそれを受け取ります。つまり「あなたはバカだね」「あなたは出来が悪い」「あなたは何をやってもダメ」と言われれば、それをその通りに受取り、それを「ラベル」として自分に貼り付けます。

 

②ラベルは「好き」「嫌い」に関係なく貼られます。

自分の好きなラベルだけを貼りたいところですが、なかなかそうは行きません。例えば「自分は暗い」というラベルを貼っていたとします。それは小学生の頃、クラスメイトと自分を比較した際に「自分は暗い人間だ」と感じて、自分で貼ったラベルだとします。しかしこのラベルを貼っていることで、大人になった時に合コンで暗く陰気な人だと思われて損をしてしまうかも知れません。そんな自分に損をもたらすラベルなのに、いつまでも貼り付けたままにしてしまうのです。

逆に「好き」なものを貼っていくことだってもちろんあります。例を挙げれば私は「神主(神職)」というラベルを貼ることでこの身を守ろうとしたわけです。まさに「好き」だから貼ったのです。

 

これはイメージですが、私たちは、

「私」という透明人間に、産まれた時から今日に至るまで日々「私とは〇〇である」という「ラベル」をベタベタと貼り付けて、その透明人間を理解しようとしているわけです。

 

そして、特にそれまでの人生において、強烈なネガティブな出来事や、継続するネガティブな現象によって貼り付けられたラベルが、仁さんのおっしゃる「ガムテープ」です。これを「私」の胸にベタ~っと貼ります。「私は〇〇である」とマジックで書いた「ガムテープ」をです。

 

例えば「社長」というラベルを貼っている人がいるとします。

苦労してその地位・肩書を得たその人は、そのラベルにとても満足しています。

しかしもう一人の「社長」というラベルを貼っている人は、自分が「社長」であることに不満を持っています。なぜなら親の会社を嫌々引継いだだけで、本当はその人は冒険家になりたかったからです。

 

この二人は同じ「社長」というラベルを貼っています。

しかし、一方は自分が「社長」であることを思う度、他人から「社長」と言われる度、自分の今までの苦労を思い出す度に、満足な気持ちになります。

ところが、もう片方の人はその逆で、自分が「社長」であることを思う度に嫌な気持ちになり、他人から「社長」と言われる度に嫌な気持ちになり・・・

と言った感じになります。

 

ラベルはそのラベルに対して、そのラベルを貼った人それぞれのイメージが「付随」しています。先ほど申した通りラベルは「好き」「嫌い」に関係なく貼ってしまうものだからです。

他人がいくら「社長」という肩書なんて素晴らしいし、羨ましいと言われても、これに不満を持っている人にとっては、全然そうは思えないのです。

 

今は「気持ち」だけを語りましたが、当然この「気持ち」に基づいて「思考」や「行動」も全く別になってきます。

日頃の顔の表情一つだって、一方は明るく、一方は暗くなるでしょう。他人に対する態度も一方は優しく、一方は冷たくなると思います。

 

つまり私たちは、自分に貼ったラベルに基いて、「私」という透明人間の(←あんまりこの表現好きではないのですがここではこれにしておきます)を「動かしている」とも言えるのです。

ですからデカデカと「ガムテープ」を貼ったままでいると、四六時中その「ガムテープ」の指示に従って動かされてしまいます。

 

しかし、これまでお読み頂いてお解りの通り、

これらラベル・ガムテープは全て、自分を理解するために、後から好き嫌いに関係なく、貼ったものである。ということです。

それは全ての人間が同じことをしているのです。例外なく。

精神的に苦しい人は、たまたま強烈なガムテープを貼ってしまった、貼らざるを得なかったということになります。

それはとても苦しいことだし、できれば避けたいことですが、だからと言って「あなたが悪い」なんてことは全くない。ということは理解して欲しいのです。繰り返しますが、これは誰もがやっていることであり、そのラベル・ガムテープの種類やそれに付随するイメージがそれぞれ異なるだけなのです。

 

しかし元も子もない事を言うようで恐縮ですが、

この「ラベル」「ガムテープ」というのは、極端なもの言いをすると・・・

「幻」です。

その「透明人間」を説明するツールではありますが、非常に表面的で、全く本質を突いていません。

なぜなら・・・・

 

 

剥がせるようなものだからです。つまりその程度のものだということです。

 

 

つまり「私は〇〇である」というラベルやガムテープを全部剥がして現れれる「透明人間」・・・・

これが「本当の私」なのです。

私たちはこの「本当の私」に注意を向けなければいけないのです。

というより、興味関心の全てをここに注いでもいいくらいです。

今までの思い込みや、人からの評価、地位や肩書と言ったものに影響されるのでなく、もちろん過去のネガティブな出来事に捕らわれるのでもなく、

ただただ「本当の私」とは一体何者なのか。

という問いと、これを理解するための行動を、この人生において繰り返して欲しいのです。

そのヒントが「理由のない好き」です。

子供の頃に夢中になったものや、誰に言われるわけでもなく続けられるもの、時間を忘れて没頭できるもの。

これが「理由のない好き」です。これがない人はいません。

「ラベル」や「ガムテープ」から放たれる余計な声で、「本当の私」が訴える「理由のない好き」がかき消されてしまいます。しかしちゃんと訴えています。その声を聞きましょう。実を言うと宗教的な表現をすれば、これが「神の声」です。

 

いつも「私」は「私」の味方ですし、あらゆる答えは「私」の中にあります。

どうか、チャレンジしてみて下さい。

私も実践していきます。

 

 

それでは今日はここまで、最後までお読み頂き、ありがとうございます。

 

 

この記事は『YORISOI』と『神主の遺言』で共有しています。