『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

呪文の元をたどる

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

蒸し暑いですねぇ。

体調にはお気をつけください。

 

 

今日も私の話になってしまうのですが、

私は結構というより、病的な「遠慮癖」みたいなところがあります。

一言で言えば「人にモノを頼めない」のです。

 

とにかく何か人にモノを頼むことはその人の時間を奪うこと。

という思い込みが強くて、申し訳なくなってしまうのです。

ですから、例えばある人に電話を掛ければ、一発で解決するようなことでも、全然できなかったり、

極端な話、旅行に行ってツアーガイドさんと一緒にいても、「この人の時間を奪っている」というような気になって恐縮し、早く終わらせようとするわけです。

だからいつも行動は「独り」であることが多いのです。

本当に損してるなぁ~と思うし、克服したい課題です。

 

実を言うと、これは間違いなく母親の影響を受けています。

「人に迷惑を掛けてはいけない」という彼女の呪文を幼いうちから掛けられていて、そこから抜け出せないわけです。

そして斯く言う母親もまたこの呪文がかかった人間です。

要は「私はこうしたい」という意見をハッキリと述べることが難しいのです。

これもやはり自分の意見を述べることは、相手の意見を遮ったり、変更させたりするもの=迷惑がかかる行為

という図式に従っているのです。

 

まぁこのように親子で「生きずらい」部分というのを抱えているわけです。

 

ただこれにはちゃんと原因があって、そういう人間になるもう一つの呪文があるわけです。

つまり私や母のように、自分の言動がすなわちそのまま他人の迷惑につながるという思考回路を築く呪文です。

 

それが・・・・

 

「私がいるからあなたはこうして暮らせていけているのだ。」

 

という呪文です。

そう、これは私の祖母(母の母)が口にしていた言葉です。

恐らくですが、私の母親はこのセリフを幼い頃かなり聞かされてきたはずです。

こうした言葉のシャワーを浴びると人間どうなるかというと、

早い話が・・・

 

「自分が存在していることが他人の迷惑になっている」

 

という思い込みとなって、無意識に押し込められるわけです。

そしてこれが「人に迷惑を掛けてはいけない」という言葉として表現され、自分の言動を制約し・・・

やがてその価値観を自分の子供へと植え付けるわけです。

 

或いは私で言えば、未婚で、子供もいませんから、「社会」へと向けられるわけです。

つまり、「他人に迷惑をかけている」と思われる人間を探しては腹を立てるわけです。

自然とネガティブな部分を探すような視点を持つようになるとも言えるでしょう。

ただ、これも私はネガティブ人間だぁぁ~!で述べた通り、

後天的にそうした視点を持っているということであり、

考えようによっては、時にそれが役に立っている場合もあるわけで、

自己否定する材料にはならないんだぞぉ!!!!

と自分に言い聞かせております^^

 

私に限らず、もちろん母や祖母にも限らず、

いかなる人間であっても、その心はどこまでも純粋です。

つまり、いかようにも染まるわけです。

 

私はこの「遠慮癖」を是非克服したいと思っています。

そして、私の家族の負の連鎖を呼ぶ呪文もここで終わらせたいものですよね。

もし、本当にもし、私が結婚し、子供を設けることができるならば、

 

「私がいるからあなたはこうして暮らせていけているのだ。」

じゃなくて

「あなたがいるからこうして幸せに暮らせていけているのだ。」

と逆にしてみたらいいかも知れませんね。

 

 

※今までのお話は、加藤諦三著『自分を嫌うな』を大いに参考にしています。ご興味のある方はお読みになってみて下さい。

 

 

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂きありがとうございます。