「私」を助けてくれるのは「?」
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
そう言えば以前書いた記事 ↓
私たち人間は自分という存在にたくさんのラベルを貼って、
自分を認識しようとするというお話をしましたが、
その逆に「他人」にもラベルを貼っていきます。
例えば
目の前に4本脚の何かが歩いています。
全身は毛で覆われ、しっぽがあります。
鼻をくんくんさせながら、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
地面にペタッと座り込んで寝ちゃいました。
近寄ると「ワン!」と吠えました。
これは一体なんでしょうか??
答えは・・・
「犬」ですね。
私たちは、一度この動物を「犬」と認識したら(ラベルを貼ったら)、
次に同じような動物を見てもちゃんと「犬」だと理解します。
いちいち毎回図鑑を広げて「これは犬だ!」とする必要がないのです。
人間が持つ素晴らしい「般化(はんか)」という機能です。
ということで、もうお気づきの通り、
便利であるということは、副作用があるということです。
この場合で言えば「決めつけ」ということになります。
いちいち一つひとつを調べて、じっくり観察せず、ひとまとめにしてしまうので、
それぞれが持っている特徴や個性などを無視してしまうということです。
お金持ちはみんなズルをして儲けている(本当にそうなのか?そもそもズルの定義とは?)
メキシコ人はみんな陽気で明るい(陽気で明るいにも程度があるし、暗い人もいるはず)
宗教者はみんな人格的に優れている(かなりバラつきがあります・・・)
このように、般化という機能に頼りすぎると、
「〇〇は〇〇に違いない」というラベル貼り(決めつけ)を止めどなく行ってしまいます。
なぜなら「楽」だからです。
その為に、一つひとつをじっくり観察せず、十把一絡げにしたほうが、考える必要がないから脳は「楽」です。
しかし、実際はその思い込みと違うことの方が多いわけですから、色々なチャンスを逃したり、出会いを不意にしたり、見識を深める機会を失ったりするということです。
ですから、先ずは決めつけず、じっくりと相手の中身を観察することが大事なのです。
とまぁ、ここで話が終われば、私は普通の人です^^
ちょっとだけこの先があります。
とは言え、私の場合、会った瞬間とは言わずとも、
お付き合いが続かない、あるパターンを持っています。
それが・・・
私が「媚びようとする人」です。
こうした感覚を私が相手に抱いてしまうと、その相手とは基本的に良好な関係が築けないのです。
先ほど述べた「般化」というのは、飽くまでも「脳」の機能です。
私の述べているのは、そうではなく「感覚」の話です。
私の場合で言えば、
「この人に好かれたい」と異性だろうが、同性だろうが、子供だろうが、大人だろうが、リアルだろうが、ネット空間であろうが、なんであろうが・・・
そう思う気持ちが強ければ強い程、それとは逆の結果として表れます。
ですから、こうした人が現れた場合は、なるべくこちらから身を引くようにしています。
決めつけではなく、ある種の「警告」に従うと言った感じです。
私は人に好かれたいという気持ちが普通の人より多いです。これは間違いありません。
そして、ここが肝心なのですが、
それが「得意」なのです。
自分の考えや思いとは全く違う相手でも、なんとか取り込み、取り入ることができてしまいます。
しかし・・・
それは「本当の私」が望んでいることではありません。
精神は極限まで摩耗しますし、肉体的にも苦痛を伴います。
本当の私は、当然心の通う人との交流を望んでいるのです。
だから・・・
私が媚びようとする人が現れた時、
これ以上の深入りを避けさせる力が働くのも、
或いは悪い結果として表れるのも、
「本当の私」から警告というわけです。
警告というと、なんか穏やかではない感じに聞こえてしまいますが、
そうではなく・・・
「今まで散々苦しんだでしょ~。もうこれからはありのままでいられる人と付き合ってねぇ~」
と私が私に言い聞かせてくれているような、そんな優しい、諭しのような感覚です。
「私」を助けてくれるのは「私」というわけです。
みなさんもきっとこうした感覚を持っていると思います。
それはあなたの人生をよくするための感覚なはずです。
是非耳を澄まして、「本当の私」の声に従って下さいね。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
※そういえば、もう少しでユーチューブでも発信を開始します。
ただ勝手がわからず、時間がかかっています。
今までのブログの内容に基づいて、私の言葉で語るつもりです。
もう少しお待ちください。引き続き『神主の遺言』をよろしくお願いします。