おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
今日はなんとなく、止めどない感じの投稿になると思いますが、
ご容赦願います。
私は「どんな性格?」と聞かれた場合、
間違いなく「寂しがり屋の独り好き」と答えています。
ホントにこれが当たっているのです。
誰かに猛烈に構って欲しいと思う時もあれば、
完全に放っておいて欲しいと思う時もある・・・
自分勝手と言えば、そうなのですが、
それが私なのだがら仕方ないのです。
私は大学の時に運動系のサークルに所属していたのですが、
そこでの「同期」(同輩)というのは、やはり特別な存在になってきます。
ただ一緒のスポーツをしているというだけでなく、
私のサークルは合宿に2ヶ月近く寝泊りも一緒で、
お互いの深い部分までわかってくるものです。
ですから、私の「寂しがり屋の独り好き」というのも、同期にはバレバレで、
「今、泉(私)はみんなといたいんだな。」とか「今独りにして欲しいんだな。」
みたいに、私の様子を見てうまく距離を取ってくれていました。
ただ、ここに行きつくには、それなりの「時間」がかかったし、
いきなり1年生の時からこんな感じではありませんでした。
大学4年間という結構長い時間の中で、
メンバー同士で「お互いを知ろう」という努力を重ねたからこその話です。
そして、「私はこういう人間なんです」
ということを相手に伝えたから、分かってくれた部分も山のようにあって、
そうでないと、相手は(ここからが非常に重要です)
「どうしていいのかわからない」
のです。(あたり前なんですけどね)
つまり、私で言えば、「今は構って欲しい」「今は放っておいて欲しい」
どちらからのオーラのようなものが出ていたとしても、
【分離】している「他人」からしてみると、
「んんん???なんか様子が何時と違うけど、どうしよう・・・」
「ここは何もしないでそっとしておいてあげよう」
或いは
「話しかけてみようかなぁ~」
みたいに、どうしていいのかわからず・・・
結局の所「何もしない」という選択を取ることが多いわけです。
なぜなら「相手を大切に思っているから」です。
相手(つまり私)の事を大切に思ってくれているからこそ、
「何もしない」でいてくれているというわけです。
でも、私としてはその「何もしない」という相手の態度を見ていると・・・
なんとなく疎外感や孤独感みたいなものが沸き上がり、
相手が私の事を思って「何もしない」でいてくれているというその「優しさ」には気づかず、逆に妙な攻撃的な感情が沸き上がり、或いはそんな自分を責めたり、うんざりしてしまうことがあるわけです。
しかし、やはりここで、注目したいのは、
「私たちは相手の気持ちを100%理解することができない」
という大原則です。
【分離】した「他人」には、どんなにわかり合った相手であっても、
相手の気持ちを完全にくみ取ることはできません。
しかし、しかしですよ、
そうであっても、私で言えば、当時のサークルの同期というのは、
誤解を恐れず言えば・・・
「甘えていい相手」でした。
つまり、「寂しがり屋の独り好き」という自分勝手な性格を、
隠す必要も、悪びれる必要もなかったのです。
なぜなら、理由はただ一つ「同期だったから」です。
相手を支えるのが当たり前だったし、逆に支えられるのが当たり前だったのです。
そうしなければ、あの過酷なサークル活動をチームで乗り切ることができなかったのです。
甘えることは悪い事である。みたいに思われがちです。
私だって、初めて会う人や、社会に出た時に、
こうした性格であることを、いきなり披露して、
「私に気を遣ってください!」なんて言うことはいたしません。
しかし、お互いを愛し、信頼しているチームや家族の場合、
逆にそれを我慢したり、はっきりと思いを伝えないことによって、
憶測や勘繰りが行き交い、
結局良い方向へ物事が進まない場合があるわけです。
むしろチームや家族という人の集まりの場合は、
「今私はこうして欲しい」という、
その時は甘えやわがまま、恥ずかしいことに見えることであっても、
相手を「愛している」という前提によって成り立っている集団であれば、
むしろその集団にとって、その主張は、決して迷惑なものではなく、
逆に全体の結束を強め、個々の役割を明確化させるよい材料になると思います。
そして、もちろん相手に対して、今度は私が何ができるか。
という考えが生まれ、さらに良い関係が構築されるうように思うのです。
今日はふと、昔を思い出し、そんなことを考えてみました。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。