『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「性」+「好き」

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

 

今日は重~いテーマで行きます。

苦手な方は途中でブラウザバックなさって下さい。

最初に申しておきます。

私は犯罪を助長しようとか、そういう意図はございません。

 

 

私の話で、かなりの頻度で出てくる

「理由のない好き」

という言葉。

その人の人生をよりよいものにするための大切なツールです。

一方で、

「理由のある好き」

というものもあります。

それを好きになるに至った何か理由があるというわけです。

私たちはこの二つの好きを持っていて、

例えば私で言えば、神道・神社というものは、この二つの好きが重ね合わさっているといった感じになります。

 

それに、私はこの神道・神社が好きで本当に良かったと思っています。

私なりに、これを見つめて、ささやかですけど、こうして発信できるのも、

私がこの神道・神社が好きだからこそというわけです。

 

しかし実は、何かを好きでいる事が、その人にとっての「生きづらさ」に直結する場合があります。

つまり、それを好きであるが故に、人生が苦しい。というものです。

私は今まで「好き」という人間の感情のポジティブな面だけを取り上げてきましたが、

実はネガティブな面もちゃんと存在するのです。

 

例えば、「許されない恋」というのはどうでしょう?

既に結婚されている人に恋い焦がれてしまうとう場合もあります。

或いは、「実らない恋」というのもあります。

既に告白はしたが、受け入れてもらえず、でも何年も何年もその人の事が忘れられない。という事だってあります。(実は私はそういう人を知っています。)

この他にも相手の立場などによって、実現できない恋というものはたくさんあります。

「好き」であるが故に、苦しい。というものです。

人の苦しみに程度なんてありませんし、痛みの感じ方も違います。

ですが、上記の「好き」は犯罪でもなければ、社会道徳に反する事ではありません。

 

私が今回言いたいのは、こうしたものから「漏れる」ものに焦点を当てたいのです。

その最たるものとして・・・

 

「小児性愛」

 

というものがあるわけです。

つまり、思春期以前の子供に対し、性的魅力を感じる人の事です。

日本でもしばしばニュースになります。

そして、こうした「性」関連のニュースというのは、人間の心理というか、本能レベルで関心を集めるようになっています。

みなさんも、必ず一度はこうしたニュースに触れたことがあると思います。

 

「性」については、以前記事にして、

結構たくさんの方に読んでいただいているのですが、

「性」のお話し - 『神主の遺言』

今回は本当に直球の「性」がテーマというわけです。

しかも、それが犯罪と絡むお話なので、苦手な方はこの辺りでお逃げ下さい。

 

もちろんこの「小児性愛」というのは、子供に手を出した時点で犯罪です。

その子供にとって重大な精神的ダメージを与えます。

許される行為ではないのです。アメリカなどではこうした性犯罪者は監視対象となりますし、それを擁護するような人間も排斥の対象となります。

はっきり言って「存在しているだけで悪」という扱いを受けます。

 

「ということを本人が一番知っている。」

 

ということが言いたいのです。

「好き」と自分の「性対象」がピッタリくっ付くといのは、はっきり言って誰でもあります。

相手の体のここの部分が好きとか、

なんとかのコスチュームが好きだとか、

こんなシチュエーションが好きだとか・・・

絶対あるはずです。あって当然なのです。

 

しかし、それが「犯罪」+「好き」という場合があります。

そして、繰り返しますが、それが犯罪であることを、

本人が一番知っているというわけです。

 

そして、当たり前ですが、「性」というのは、服の着脱のようにはいきません。

常にその人の中にあるものです。というよりその人を構成する要素の一つです。

ですから、その人がその人である以上、その「性」は基本的変わらないのです。

加齢による性欲の減退というのは確かにありますし、しかしそれもかなりの個人差があるわけです。

 

つまり、小児性愛で言えば、犯罪であることを本人が一番理解しつつも、

どうしても小児が「好き」(性対象)であるということを止めることができない。

という、「生きづらさ」となって、その人の人生を支配するというわけです。

 

この、先ほど述べた自分の「好き」と「性対象」がピッタリくっ付く理論というか、メカニズムの解明は非常に難しいようで、私も結構たくさんの本を読みましたが、何か一つでも、納得できるような説明や論説に出会ったことがありません。

 

ただ私の感覚として、こうした「性」と結びつく「好き」のほとんどは、

「理由のある好き」だと思っています。

つまり、それまでの人生の中で、何のきっかけがあって、それを好きになっているというものです。

「小児性愛」は「小児性愛障害」という精神障害である。ということになっていますが、やはりこれも少し乱暴な導き方だと思います。

鬱病などと同じように、「病気」と位置付けることで、こうした人間の心の光を当てるべき部分を見落としてしまうように感じるからです。

 

私もそして、私の仲間も、たくさんの「生きづらさ」を抱えて生きています。

正直申しまして、今はだいぶ楽になりましたが、

私は「生きているだけで重労働」と言った感じでした。

 

しかし、自分が持っている「好き」、

さらにそれが「性」と結びついた犯罪であるというような種類の

「生きづらさ」を体感したことはないわけです。

とは言え、もちろんこうした人の「行為」は未然に防ぐべきですし、

実際に行われた場合は、厳しい罰が下されないといけません。

 

ただ、私が言いたいのは、

「生きづらさ」にもたくさんの種類がある。

ということです。

 

そして、ここからは本当に「自分に対する戒め」になりますが、

ここ最近、自分が「生きづらさ」を長年抱えてきた少数派で、どこか特別な人間であるかのような、妙なオゴリみたいなものが芽生えていたように思います。

でも、今述べた通り、「生きづらさ」を抱えている(いた)のは私だけはなく、

それにそれにはたくさんの種類があって、

私なんかが経験することがないような、

思いもつかないような「生きづらさ」に苦しんでいる人だって山のようにいるわけだから、やはり謙虚でなければいけないな・・・・

そんなことを思ったというわけです。

 

今日は本当に内容がハードでした。

ご気分を害されたらごめんなさい。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。