『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

悪魔の操り人形になる方法

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

そういえば、このブログは数か月の間「はてなブログpro」だったのですが、

最近普通の「はてなブログ」の仕様に変わりました。

引き落とし先のカードの番号が変わって、

変更したことを運営に伝えなかったので、自動的にproではなくなりました。

でも・・・

proでも普通でも、なんかあんまり変わらないというか・・・

で、まぁいいやということで、そのままです。何もなければこのままでいきます。

 

んで、話は変わりますが・・・

かなり前の記事で、

悪魔の正体 - 『神主の遺言』

悪魔の笛 - 『神主の遺言』

 

というのを書いたのですが、

今回はちょっとリメイクというか、改めてというか、別の角度というか・・・

この「悪魔」について考えてみたいのです。

 

というのも、先日とあることで、

オウム真理教地下鉄サリン事件」のことを思い出す機会がありました。

私はまだ中学生だったのですが、当時の事はよく覚えています。

テレビでは連日このオウム関連の報道がなされていましたが、

茶の間で以下のような会話がなされていました。

 

「なんで高学歴な人がこんな宗教に入って、事件を起こすんだろう・・・」

 

というものです。

当時の私も、なんでかなぁ~。と思っていました。

頭が良い人の中には、こういう人が自然の現れるものなのかも知れない。

そんな感じの感想を持っていました。

しかし、時が過ぎ、今にして思うとこの答えってすごくシンプルであることに気づきます。ちゃんと理由があるのです。

それが・・・

 

「オレは不当に扱われている・・・・」

 

という「不満の感情」です。

このオウムではサリンや毒ガスなどの化学兵器が教団施設内で製造されていました。

私たち一般の人にはそんなの作ることはできません。当然科学者が必要なのです。

しかし「これから大量殺戮をするので、科学者のみなさん力を貸してくださ~い。」

なんて言っても誰も集まってくれません。

そこで【悪魔】はどういう手を使うかと言うと・・・

大学や学会、研究所などで、そこに所属する組織や集団に対して「不満」を持っている人を見つけ出すのです。

特に「なんでアイツよりオレが下なんだ!」とか

「こんなに成果を出しているのに、正当に評価されない!」みたいな人を探すのです。

 

オウム真理教に限りませんが、実を言うと日本の「大学」って、

大学の運営側が全く把握していない、或いは神聖不可侵のような空間があって、

そこにカルトや政治的イデオロギーに基づく組織の活動拠点となっている場合があるのです。私の出身大学もそうです。

 

そして学生や学生のフリをした活動員が、こうした人物に近寄り・・・

 

「先生のような素晴らしい人材が正当に評価されず、辛酸をなめ続けているのはオカシイ!私の知り合いで先生の力を存分に発揮できる場があり、既に向こうには先生にしかるべき待遇とポストが用意されています。是非こんなところから抜け出して下さい!」

 

と言うわけです。

そして、どんどん取り込まれて行きます。

しかし、出発点はこの人物が持つ「不満の感情」です。

これがあるからこそ「悪魔」を呼び寄せた。

というわけです。

「操り人形」で言えば、自分の四肢に、自分で紐をくくり付け、

その先の操作板に繋いでおくようなものです。

後はその糸を操る「悪魔」を待つばかり・・・

悪魔にその操作板が渡れば、

最終的には悪魔の目的を達成させるために駒として使われて終わりなのです。

 

しかし思うのですが・・・

 

「オレにこんなふざけた扱いしかしない組織なんてとっとと去ってやる」

 

というような人であればこうはなりません。

別の環境を探しますから。

でも、その組織から出なかった、或いは出られなかった・・・

という点に注目すべきだと思います。

当然それには人それぞれに理由があって、千差万別だと思います。

しかしやはりその中でも、

その組織に不満を持ちながらも、

そこに所属する「メリット」も享受している。

というのが挙げれると思います。

 

とりあえず、くいっぱくれないとか、一定の地位は確保されているとか・・・

或いは、悪い意味で執着に取りつかれているとか。

だから手放すことができないというわけです。

 

しかしやはり、もし本当に自分を愛し、自分の可能性を信じるのであれば・・・

そして、「悪魔」を呼び寄せ、自分を破滅させてしまうのであれば・・・

思い切って「環境を変える」という選択をしてもいいと思います。

その人が本当に活躍できる環境は、誰かに用意される場合もあるでしょうが、

自分で創造することだってできるわけです。

つまり私たちは、選べる、つまり「自由」である。

ということです。

 

サリン事件を振り返り、そんな事を思いました。

独り海を眺めて、「本当の私」の声を聞きながら・・・

 

それでは今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。