『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

神様っているの??

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

今日は長いし、ややこしいというか、難しいかも知れません・・・

 

 

結構前の話なのですが、

「神さまって本当にいるの??」

って、友達の友達みたいなうっすい関係性の人に、

喧嘩ごしとも、茶化され気味とも言えない、

妙なテンションで尋ねられたことがあります。

それも6~7人集まったホームパーティーの最中に・・・

 

これこそ「神学」の原点ですから、

大事な質問なんですが、当時の私は酒をたくさん飲む人間だったので、

既にその時、真面目に答えるだけの余裕も、気持ちもなく、

聞いてくる相手も、真面目に聞こうとしているのではなくて、

「神様なんて非科学的な、まやかしなんだろ。」

と口で言わずとも、顔に書いてあったので、

私もちゃんと答えず、本当に適当に応対したので、

相手はそんな私を見て「勝った」

みたいな表情をしていたのを今でも鮮明に思い出します。

 

今、もちろん酒も飲まず、膝を交えて、図解をしながら語れば、

少しは彼の納得いく「神」の説明ができるかも知れませんが、

もう遠い過去の話です。

 

私たち日本人は「八百万の神」という言葉をよく使います。

そして、あらゆるものに神が宿っている。

という感覚を持ってます。この感覚を私は「和覚」と呼んでいます。

 

しかしその一方で、

私たち日本人はここ150年(つまり明治から今に至るまでの時間の中)で、

神に対するイメージを、かなり「西欧化」させています。

つまり、神というのは、唯一絶対の存在で、人間を超越したものである。

みたいな感じです。

ですから、人によっては、見た事も、触ったこともないような、

神と呼ばれるものを、こんな科学が進んだ現代で、

未だに中世の人のように、ありがたく拝んだりするのはナンセンスだ!

と感じたり、その「得体の知れない存在」のご威光を傘に、

偉そうに講釈を垂れる宗教者なんてロクでもねぇ~

と感じるのだと思います。

 

ただですね・・・

ちょっと心をフラットにして以下の話をお聞き頂きたいのですが・・・

森喜朗という方が、総理大臣をお務めになっていた時、

彼が日本を「神の国」と言ったのを覚えていると思います。

神の国発言」と言う事で、とにかくマスコミが騒いで、

叩かれまくったのですが・・・・

 

あれを・・・

「神々の国」

と表現していたら、みなさんはどんな印象をお持ちになるでしょうか?

 

神の国」と「神々の国」

「々」(くりかえし)

が付くか、付かないかで、かなりイメージが変わってくると思います。

総理大臣の発言として、いずれも相応しくないと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、今はそうした議論は置いておくとして、

とにかくこの字ズラだけでどう感じるかをお聞きしたいのです。

 

神の国」というと、なんとなく・・・

「選ばれた国」や「他の国とは違う特別な国」或いは「超越した国」

のようなイメージになると思います。

 

しかし

「神々の国」となると、

各地に神社があって、お祭りがあちこちで盛んで、

言われてみれば、この「お茶碗」一つにも霊的なものが宿っているようなぁ・・・

みたいな感じで、先ほどの「神の国」とは「視点」が全然変わってくると思うのです。

 

日本という国は確かに

「神国」や「神洲」と自称したり、外国からもそう呼ばれたりしていました。

それに「神風が吹く」とか天皇を「現人神」「明御神」なんて表現したりもします。

ただ、これらの言葉は明治以降どころか、神話の時代から使われていた言葉です。

つまり「西欧」が日本に入ってくる遥か前から、普通に使われてきた日本語です。

そして、これらに使われている「神」という言葉の意味は、

「すごい」とか「立派」というニュアンスが多分に含まれています。

顕著な例で言えば「神産巣日神」(かみむすひのかみ)という神様のお名前です。

お名前に神の文字が2つも出てきます。

 

神=すごい・立派な

産巣日=不思議な生命力

神=神様

 

という意味になります。やはり最初に出てくる「神」という言葉は、その「働き」を示しているわけです。

しかし、我が国に「西欧」が入ってくると、神に対する概念が変わってきます。

つまり、神とは唯一絶対的な存在であるというイメージが植え付けられていくのです。

ですから、神話に基づけば、日本というのは「神々」が生んだ国・島であり、それはそれで民族のアイデンティティとして素晴らしい考え方なのですが、

いつの間にか・・・・

「神国」「神の国」と言うと、

「選ばれた国」「他の国とは違う特別な国」「超越した国」

みたいなのを、私たち自身がイメージしてしまい、人によっては非科学的な危険な思想と捉える人もいるのだと思います。

また、はっきり言って、戦争中に「神国だ!」「神風だ!」と言っていたような人も、それを聞いていた人も、同じようにこの「神」という言葉を、日本の古い考えに基づいて使っていたり、理解していたわけでなく、非常に「西欧的」な感覚で使用していたように感じてならないのです。

 

 

ですから、私に対してホームパーティー中に、

「神様っているの?」という質問をしてきた彼も、

きっと、こうした「西欧的」な神をイメージしながら質問してきたように思います。

 

しかし例えば、

今あなたが持っているグラスは、とあるガラス職人が何か月もかけて作り出したものです。

なんていうと、人によっては途端に「魂が宿っている」なんて言い出したりするのです。

或いは明治神宮も、豊国神社も、照国神社も、報徳二宮神社も・・・

みんな歴史上の人物が神として祀られている神社ですよ。

とか言うと・・・「え?そうなの??」とびっくりする人もいます。

ただ、たぶんですが、「神様っているの?」と私に質問してきた彼は・・・

「じゃ~人間が神なの??、違うでしょ!人間は人間でしょっ」

と突っかかってくると思います(^^;

なぜならこれこそまさに、人間とは異なる、唯一絶対の神という存在がいるというイメージに基づいたものだからです。

 

 

 答えを言ってしまえば・・・

「神」とは「全て」です。

私たち人間も、草木も、動物も、何もかもです。

 

そして全てが尊いのです。

なぜなら・・・

「存在している」からです。

 

私たち全ては「存在している」

「無」ではなく「有」であるという事実。

その真理に気づいて欲しいのです。

 

そうすると、あらゆるものの存在が尊いことに気づきます。

そして、そのそれぞれの尊い存在が、各自の特性を活かして、

多くの人などに恩恵をもたらすと、時として日本ではそれを「神様」として祀る。

というわけです。

しかし、神社の神様として祀られようが、なんだろうが、

私たち「存在しているもの」はそれだけで、尊いのです。

ですから、それを神と呼ぼうが、何と呼ぼうがどうでもいいのです。

崇拝する必要なんてありません、だってこの己も同じように存在し、尊いわけですから、

お互いに尊重し合えばいいということです。

 

つまり、「神様っているの?」と質問した彼にもし今言える言葉があれば、

神とは「私」であり、「あなた」であり、「全て」である。

と答えると思います。

 

 

なんだか、ダラダラ落ちが無い感じですが、

この辺で止めにしますね。

何か伝われば幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。