『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「やっぱり私は素晴らしい」を知るために・・・

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

久しくブログを更新していなかったのは、

ズバリ!

「精神状態」が悪かったのです!

 

6月くらいからすごく気分が良くて、毎日前向きな気持ちで過ごしていました。

なんだかこれまでの人生の悪いものが全て抜け出ていったような感さえありました。

ところが、9月に入ってイキナリぶり返したというか、なんというか・・・

 

ロクなこと考えないし、

朝から晩までネガティブな思考に捉われ実は苦しかった。

まぁ原因はよ~くわかっています。

あんまりはっきりは書きませんが、

要は「環境」です。

 

 

 

ということで、今日はその「環境」についてのお話です。

なんとなく「環境」について考えていたら思い出したことを書こうと思います。

少し内容がディープですので、ご承知おきください。

 

ネットで検索すればすぐわかってしまいますが、

日本のある地域で、ごく最近まで残されていた習俗がありました。

そこは山間部にある小さな集落です。

どんな習俗かと言うと「長男以外は奴隷扱い」というものです。

名称もあるのですが、ここでは伏せますね。

 

今では次男、三男などは家を継がずに、

独立して所帯を持つというのが当たり前です。

しかし、昔は違いました。

次男や三男などが家を所帯を持つということは、それだけ「食い扶持」が分散するということです。

Aという家に3枚の田んぼがあって、兄弟でそれを3等分してしまえば、

先祖から継承した土地が減ってしまいます。また将来的にはさらに細かくなっていき、兄弟や親族ではなく、他人の手にわたる可能性だってあります。

ですから、日本では特に中世以降(中世っていつから?という問題は置いておきます)

長男が全ての財産を継承するという考えが生まれたのです。

それでは長男が家や土地を相続して、次男三男はどこかへ出て行けばいいだろうと思います。もちろんそういうパターンもあるでしょう。

しかし、その土地の地理的な要因や風土などによっては別の考えも生まれるのです。

 

農作業や山仕事は当然の事ながら、昔は全て人力です。

家を継承した長男とその嫁や子供だけでは大変なのです。

ですから、次男や三男と言った財産を継承しなかった人を労働力として確保したのです。

 

次男や三男などは、生まれた時から長男に仕えるように躾けられます。

全く同じ扱いを受けないのです。

そして本当に悲しいことですが、四六時中バカだのアホだの言って人格を否定され、周囲との交流も極端に制限されるそうです。

地域の行事や祭りには参加することも許されず、村の名簿のようなものには、「厄介」と記載される程です。

もちろん結婚することはできません。ただその家の労働力としてのみ存在するのです。

彼らは、いつも覇気がなく、うつむきながら、ひたすら労働に従事するだけだったと言います。

 

時にそうした「環境」に耐え切れず、村を飛び出す人もいたそうです。

しかし数日もするとまた家に戻ってくるようで、

幼いころから、他者とコミュニケーションを取っていなかったことにより、

社会とのかかわり方が不得手で、「生き方」がわからないからだそうです。

 

実はこの話は非常に有名です。

そして、この地域だけが、日本で唯一こうした習俗があったような言われ方をしていますが、実はここだけではありません。

もちろん地域名は伏せますが、私は実際に訪れたこともあります。

江戸時代から村の「軒数」が決めれているのです。

長男だけ結婚して、その両親は次男・三男を連れて別の家に引っ越すという制度です。

これもやはり家を増やさないようにして、労働力を確保するという方法なのです。

 

もちろん、家を守るため、共同体を守るために編み出された制度ではありますが、

今となっては人権の蹂躙と言える制度だと思います。

 

そして・・・

実を言うと、私はこれに近い状態を子供の頃、間近に見てきました。

人の家のことなので、あんまりはっきりとは書きませんが・・・

 

祖父・祖母・父・母・子と「一人の女性」

という家族構成の家がありました。

私はこの家である習い事をしていたのです。

 

その「一人の女性」はとにかくいつも無口で、

人に近寄ることがありませんでした。

本当に「何とも言えない、もの悲しい雰囲気」をまとった女性でした。

毎日、毎日、自転車に乗って、買物に行っていました。

その家の方も、そして習い事をしている仲間も、

その女性については決して話たり、口にしたりすることがありませんでした。

完全なる「タブー」と言った存在だったのです。

 

しかしご想像の通り、私はその女性が気になって仕方なかった。

だから用事もないのに、声を掛けてみたり、

何かを尋ねてみたりしていました。

その都度、本当に短い単語だけを小さい声で発しながら、

小学生の私と話をしてくれたことを覚えています。

でも、これは本当に穿った見方(←使い方間違えているかな?)になりますが、

声を掛けてくる私を、彼女は嬉しそうに感じていたと思います。

現に私と話す時、少し表情が緩んでいたのを今でも思い出します。

 

しばらくして、その家は道路拡張の為立ち退きになり、引っ越していきました。

後から聞いたら、彼女は一緒に住む祖母の娘だったそうです。

どういう経緯で、あのような扱いを受けていたのかはわかりません。

ひょっとしたら軽度の知的障害があったのかも知れません。

しかしそれ以上に彼女のおかれた「環境」が、

先ほど記した通り、「何とも言えない、もの悲しい雰囲気」をまとわせていたはずです。

もう25年近く前の話です。

彼女は今、何をやっているのだろう。

元気であって欲しい・・・

 

 

 

(以下小難しい事)

人間はそれぞれの一生で様々な体験をします。

そしてその体験を通じて様々な「感情」を味わいます。

この「感情」だけを、死後と呼んでいる、肉体が滅びた後、

【元型】に持ち帰り、元型は自己を知る材料とするのです。

「不当な扱い」を受ける人生を送った人は、

その真反対である、思い遣り・慈しみ・助け合いと言った元型自身が持つ特性と、

その持ち帰ったネガティブな感情を並べます。

そして、元型は「やっぱり私は素晴らしい」ということを、改めて知るのです。

 

 

今日はなんとなく、感情の吐露みたいなブログでしたね。

ただこれがありのままの私です。

それでは今日はここまで。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。