『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

感謝ができない理由

みなさんこんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

前回の記事

神主がおススメするある事 - 『神主の遺言』

こちらを元にユーチューブで補足っぽい事を述べた動画をアップしたのですが、

やはり「感謝」については色々と考えることが多いですね。

今日ももう少し掘り下げてみようと思います。

 

 

野球の長嶋茂雄さんていますよね。

あの方に「どうすればあんなホームランを打てるんですか?」みたいな質問をすると、

「バットをサッと振って、バチーンと球にあてて、カキーンを打つんですよぉ」

みたいな答えが帰ってくるそうです。

 

また私の友人でスキーをやっている人がいて、どうすれば上手く滑れることができますか?と聞いた時も、

「スキー板をシュッとまげて、サーっと滑って・・・」みたいな説明をされたことをよく覚えています。

 

両者に共通しているのは、「サッ」とか「シュッ」とかの「擬声語」ですよね。

つまりこれってこの人の持っている【感覚】を言葉として表しているということです。

例えばこの「サッ」と言葉に表しているけれど、その中身は、

バットの角度は何度で、右腕の力はこれくらいで、目の位置は少し向こうで、

呼吸は一瞬止めて、足の開きはこのくらいの範囲で云々・・・・

と正確に表そうと思えばこのように細かく表現できてしまうし、言葉で表現できないことも山のようにあると思います。

ですからバットを振るという一瞬の【感覚】を長島さんは「サッ」という言葉として表した。というわけです。

 

従って、例えば私に(私に限りませんが)、

「ホームランの打ち方は「サッ」とバットを振る事です」と口で言われても、

その「サッ」が全然わかりません。だってそれは長島さんが持っておられる【感覚】だからです。

有能な指導者というのは、その【感覚】をいかに上手に他者(選手等)に伝えるかなのだと思います。

私たちは自分の中に色々な【感覚】を持っていて、それをその人なりに言葉や態度として表現しているというわけです。当たり前の話をしているんですけどね。

 

そこで今日の本題の「感謝」です。言葉としては「ありがとう」ですね。

実はこの「感謝」「有難い」というのも【感覚】があります。

物をもらってありがとう、何かをしてくれてありがとう、みたいな感謝もあるのですが、今日はもっと根本となる感謝について考えます。

 

それが・・・

「もともと無かったのに今有る」という【感覚】です。

 

実はこの【感覚】はこの世にいる全ての人が、その喜びに打ち震え、ありがたくて、ありがたくて仕方ない。という経験を既にしています。この喜びは宝くじに100万回当たったどころではない程の喜びです。

今まで生きてきてそんなに喜んだことなんてない!と思うでしょうが、実はあります。

それが・・・

母親の胎内に宿った時から出産して外の世界に出てくる間に経験しています。

つまり胎児の時に皆経験しているのです。

 

私たちは母親の胎内で・・・

「私は有る!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

と大喜びしているのです。

だって今まで「無かった」わけですから。

それが物理的に存在するようになったのです。

この喜びこそ「もともと無かったのに今有る」という【感覚】です。

もう自分が「有る」ということが、嬉しくて嬉しく、ありがたくて、ありがたくて・・・・【無からの有】というこの奇跡をどう表現していいのかわかりません。

とにかくありがたい、ありがたい。という気持ちで一杯なわけです。

 

そして・・・

母親が出産し、外の世界に出てきます。

 

この外の世界は、この「もともと無かったのに今有る」という【感覚】を、

ありとあらゆる手段、ありとあらゆる仕掛けによって、

どんどん忘れるように出来ています。

「欲」・「不満」・「当たり前」・「苦難」・・・こうしたものがこの【感覚】を忘れるためによく用いられます。

 

生まれて間もなくして「お腹がすいた~」とミルクを欲しがります。

「オムツが濡れた~!」と不満を叫びます。

やがて成長していくと、親や周囲に何かをしてもらうことが当たり前だと思い始めます。

そして人によっては虐待やイジメなどの過酷な環境という「苦難」が待っています。

 

何かが欲しいという「私」

何かをしてもらえないという「私」

何かをしてもらうのは当たり前な「私」

苦しい思いをする「私」

 

このように、「私」という存在に意識が常にフォーカスしていきます。

そして人は、あんなに喜んだ、「もともと無かったのに今有る」という【感覚】を忘れていってしまうのです。

すごく平たく言ってしまえば、

「今存在しているのなんて当たり前」

「そんな当たり前の事よりこの辛さをなんとかしてくれ」

という感じになってくるということです。

 

精神的に苦しいに苦しい人が、

「感謝ができない」というのは、こうした仕組みです。

そしてまたそんなご自分を責めるわけです。

自分はダメだ・・・と。

しかし先ほども申しました通り、この世はこの【感覚】を忘れるように作られた世界なのです。

精神的に苦しい人はその中でも特に「苦難」という方法をその人生の中で用いているのです。(別の方法にしてくれよ!と思いますけど・・・)

ですから感謝ができないのは、むしろそれこそ「当たり前」というわけですから、

そんなご自分を責める必要は全くない。というわけです。

 

これは精神的に苦しい人に限ったことではありません。

例えばビジネスで成功した人(に限りませんが)よくいますよね、

同じように「感謝ができない人」・・・これも仕組みは同じです。

「成功したオレはすごい!皆にチヤホヤされるのが当たり前」

と成功した「私」に意識が向きすぎて、一番肝心の「もともと無かったのに今有る」という【感覚】を忘れてしまいます。

それによって、他人という存在を尊重できなくなり、結局感謝ができない、傲慢な人になっていくのです。

 

このように、この世【物理宇宙(世界)】は、あの手この手で「もともと無かったのに今有る」という【感覚】を忘れさせようとするのです。

なぜならそれが根本だからです。

つまり「存在している」という、当たり前のようで、当たり前ではない事について向き合うのが「命」ある者のテーマだからです。

 

ですから、私はムリに感謝しなくていいです。と申しているわけです。

その代わりに神社へ来て、「自慢」をして欲しいというわけです。

「オレはお金を持っていているんだぞ~」と神社の神様に自慢しても、「ふ~ん」で終わります。なんとも思われません。

 

そうではなくて、「今存在している事」を自慢しに来て欲しいのです。

「いいだろ~、いいだろ~」と。

神様はそれをそのまま「素晴らしい」と称えてくれますから。(動画でお話しした通りです)

それを重ねていくことによって、神様から「認められる」という【感覚】が生じてくると思います。

つまり「認められる」というのは即ち「存在している事を認められる」ということです。

そうすることによって「もともと無かったのに今有る」という【感覚】を思い出していけるようになります。

要は「あなたは有る、あなたは有る」と神様の方から言われるということです。

つまり「わたしは有る」を忘れてしまったのだから、逆に「あなたは有る」と教えてもらうということです。

ですから、毎月神社へ来て、辛くても苦しくても、「今存在している事」を自慢しに来て欲しいというわけです。

これが自然と感謝ができる状態に向かうと言うことです。

 

 

今日は少し難しかったですね。

何かの参考になれば幸いです。

それでは最後までお読みいただき、ありがとうございます。