『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

聖と俗

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

たぶん取り留めない感じの投稿になると思うのですが、

それでもよければお読みください。

 

たまに(でも少ないわけでもない)

「俗な事をお聞きします」と前置きをして、初穂料の金額をお聞きになる方がいます。

或いは神主が珍しくて、「こんな俗っぽい事お聞きして悪いんですけど給料とかどうなっているんですか?」みたいなことをお聞きになる方もいます。

人によっては神社とかお寺それ自体もそうですが、これに関わる宗教者も「聖なる存在」として捉える方もいるわけです。

 

聖なる領域とか聖なる仕事とか、そういうものがあって、

それと相対して、俗なる領域、俗なる仕事みたいなものが世の中にはある。

というイメージなんだと思います。

 

でもこの「聖」って一体何なんだ?

考えることがあるのです。

 

例えば神主一つとっても、江戸時代から明治に変わる時、

お坊さんが「還俗」して神主になる事例がたくさんありました。

神主は俗人って事ですよね?コレ?

なのに敗戦以前は聖職とされたし、私は今でもそうだと思っています。

 

政教分離という言葉あって、俗なることを扱うのが政治みたいなイメージがありますけど、つい先日(というか現在進行形)のアメリカ大統領選挙という民主主義に基づいた選挙がありましたが、これって「神聖」な行為だと私は思います。

一人が一票を投じ、その権利を行使するって、非常に聖なることだと私は感じますし、代表者が議会に集って話し合い、それを行政が行使し、司法がこれを守るというのだって、やはり神聖な行為ではないでしょうか?

 

或いは「お金」って俗物でしょうか??

一生懸命働いて稼いで、それで自分や周囲の生活を支え、色々な好きなことができるのがお金で、このお金の力に大いに助けられています。

また人を騙したり、貶めたりするようなのを覗いて、そもそも仕事って神聖な行為じゃないでしょうか?

更にただの紙切れ、ただの丸くて平べったい金属、通帳の単なる数字に対して、人間が「これには価値がある」と信用しているからお金はお金なのであって、そうした人間の「信用」という何ものにも代えがたいものが宿っているものを「俗物」とするのって、ちょっと仕打ちが酷いと思うのです。

 

もっと言えば、「性行為」って俗でしょうか?

確かに相手の同意のないものは許されないでしょう。でも子供を作るだけではなく、お互いの愛を確認する手段の一つとしての性行為もあるはずです。それって「俗なる行為」とは思えません。

 

そもそも人間の「生きる姿」そのものが「神聖」なのではないか?

なのに、なぜか人は「コレは聖、コレは俗」と境界を引いてしまうのです。

個別の事例を挙げていけば、明らかに俗どころか、それは犯罪、というのもありますが、

それは置いておいて、全体を眺めた時、

私たち人間は存在しているだけで「聖」だと思います。

しかしそれを忘れて、自分なんて卑しく小さな存在である。

という思い込みが、己や己の行為を俗なるものとして、その領域に引きずり込んでいるように思うのです。

ですから、神社で言えば、

神様とそれに関わるものは「聖」、逆に私とそれに関わるものは「俗」みたいな思い込みが出来上がるのだと思いますし、それに胡坐をかく神職や宗教者も出てくるわけです。

 

神社の鏡は参拝者に向いて置いてあります。

そこに映る一つの「命」は、そこに祀られる神と同様に「神聖」なものである。

ということだと思います。

決してご自身を取るに足らない俗なるもの。なんて思って欲しくないな。

そう思います。

 

それでは今日はここまで。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。