『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

所有していないからこそ(新嘗祭の日に思う)

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

11月23日は祝日法では「勤労感謝の日」ですが、

元々は「新嘗祭」(にいなめさい)というお祭りの日です。

今日も私の思うことをつらつら述べたいと思います。

(ただこの記事は22日に書いています。23日は新嘗祭を奉仕していて書く時間が多分ないので、事前に書いています。ありのままをお伝えしておきます。)

 

遠い昔の話になりますが、私が幼稚園に通っていた頃、

幼稚園バスというのがあって、朝にこのバスがやってきて、

私を含めた園児が乗って幼稚園に行くようになっていました。

その時、今でも思い出すのですが、

毎回、毎回、幼稚園の先生が、バスが出発する間際に、必ず母親たちに向かって、

「お預かりします。」と言っていました。

 

私は未婚ですし、子供もいないのですが、幼稚園に子供を通わせている親御さんは、こうした場面は今でもそうなのでしょうか??

 

何故か子供ながらにこの「お預かりします」という言葉が耳から離れないで、

「大人が使う言葉」みたいな特別な印象を持っていました。

もう少し言うと「偉い人が使う言葉」とまで思っていたと思います。

 

ただ今大人になって思えば、子供を今日も幼稚園で預かるという意味で使っていたことはわかります。そして親は言葉に出さなくても「お任せします」という気持ちで、我が子を見送っていたんだと思います。

もし私に子供がいれば、きっとそう思うと思います。

 

・・・ってこの新嘗祭の日になんでこの幼稚園バスの話をしたかと言うと、

以下の言葉を先ず引用致します。

 

吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、

亦(また)吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし。

 

これは「斎庭の稲穂の神勅」(ゆにわのいなほのかみのみことのり)と言って、

天照大御神が、これから高天原を離れ、日本へ旅立つ神に対して、ご自身が育てられた稲穂を託す際におっしゃられたお言葉です。簡単に言ってしまえば、

高天原で育てた私の大事なお米をあなたに任せますよ。と言った感じです。

 

もうお気づきの通り、私はこの「任せる」という部分にピンと来るわけです。

逆を言えば、この神勅と共にお米を受け取った神様は、そのお米は「預かったもの」ということになるわけです。

その後、我が国には稲作が広まって、今でも日本人の主食となっています。

つまりお米とは「預かり物」であり、所有しているものではない。ということなのです。

まさに幼稚園児をバスに乗せて、「お預かりします」と言っていたあの先生の心そのものだと思うわけです。

 

所有していないからこそ、大事にできる。

という思想がここに宿っていると私は思います。しかもそれが遠い神代の昔に神様から預かったものとなれば、丁重に扱わざるを得ないわけです。幼稚園児を大切に教育するあの先生たちのように。

ですから日本の神社だけでなく、恐れながら、

天皇陛下がおいでの宮中でも年中お米に関するお祭りがご奉仕されているわけです。

その中でも特に11月23日の新嘗祭は収穫に感謝する祭りとして大事にされてきました。

預かりものであるお米を神々にお供えする、私は「一旦お返しする」と考えていますが、私たちはこれだけ神聖なものを口にして、命に代えているわけですから、やはり日本人というのは、恵まれた民族だなぁ~と思ったりします。

 

ですから正直申して、「減反政策」というのは明らかにこの国の根本精神と相反する事だと思っています。またお米じゃなくても様々な農作物の「生産調整」というのも、やはりこの国の在り方とは異なると思います。

「豊作」を真心から喜び感謝できる、本来の日本になって欲しいと思います。

政治家やお役人様だけでなく、国民一人ひとりが「日本らしさ」とは何か?と己に問い続けていけば、自然と今の形に違和を感じ、在るべき姿に戻ろう?帰ろう?進化しよう?と思うと私は思っています。

 

今日はご家族で、ご友人で、お米を始め、食べ物に感謝をし、

食べるとは?生きるとは?

そんなことを考える一日にしてみるのもいいかも知れません。

 

それでは今日はここまで

最後までお読みいただき、ありがとうございます。