『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

悪魔の勝利か?(三島・森田の自決から)

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

ちょっと今日は毛色の違う話になりそうです。そしてやや長文です。

昨日11月25日は三島由紀夫・森田必勝が市ヶ谷の自衛隊施設で決起を促し、

目的を達成することができずに自決した日です。「憂国忌」と言ったりします。今年で50年経ったそうです。私は生まれていませんので、資料や人の話を聞くだけです。

 

彼らの主張について私は語ることは致しません。ただ一つだけ思っていることがあって、自衛隊に決起を訴え、確か国会を占拠して、憲法改正の発議を行うというのが彼らの目的だったそうですが・・・

そんなことできないことくらい彼らが一番知っていたと思います。

「美しく死にたかった」のだろう。そう思っています。

「理想」があったから・・・

 

 

・・・・三島由紀夫って後年はボディビルディングと出会い、身体を鍛えるようになります。ただ彼って子供の頃は非常に体が弱く、男性的な環境と距離を取った生活をしていました。また軍隊へ入隊する際に体調不良が理由で結局入隊することができなかった人でした。

 

私はボディビルはやっていませんが、ジムにはほぼ毎日行くような人間ですし、

通っているジムは意識の高い人たちが多いジムなので、ボディビルをやっている人もたくさんいます。全く彼らに対して何か文句やイチャモンを付けるつもりはありません。(だって自分がそうなんですから)

しかしちょっと色々と考えてみたいのです。

 

この体を鍛えるという行為(筋トレ)ですが、大きく分けると2種類あります。

1つ目が何かスポーツのパフォーマンス向上や健康維持と言った目的がある筋トレ

2つ目が己が理想とする体を目指すための筋トレです。(これがボディビルディング

 

1つ目は例えば野球をやっていて、バットを打つ力を更に向上させるために腕の筋トレを行い、結果として腕が太くなった。という感じです。

2つ目は腕を太くさせるために筋トレを行い、その通り腕が太くなった。ということです。

似てるようですが、微妙に?全然?違います。

 

三島由紀夫は、後者であるボディビルディングを行っていたわけです。

つまり自分という人間の体を、自分の理想に近づけるために、筋トレを行っていたということです。ここに「ナルシシズム」があるわけです。

ざっくり言えば自分という人間を性愛の対象とすることをナルシシズムと言いますが、やはりここで重要なことは先に述べた「理想」というものがあります。

 

実を言うと、とあるネットの番組を見ていて、この三島由紀夫ナルシシズムについて語っている人がいたので聞いていたのですが、それ以上は知っていても語らなかったのかどうかはわかりませんが、「ここ」で止まっていました。なので今回記事にしようと思ったわけです。

 

私としては、この「理想」には必ず「劣等感」が付帯すると思っています。

三島由紀夫という人間は自己愛における「性」分野(←ココ難しいですよね)に非常に大きな傷・溝が幼少期から青年期にかけて形成されたと思います。

簡単に言ってしまえば「男らしさ」を上手く身に付けることができなかったことによって、現実世界で様々な不都合な出来事が生じ(軍隊に入隊できないとか)、「恥」に代表さえるような感情が彼を支配した結果、強い劣等感が彼の心に居座ったと思います。

 

劣等感が強いということは、その逆の「理想」を思い描く力も強いということです。

しかしこの「理想」はあくまでも「理想」です。

つまり「男とはこうあるべきだ」という、彼の中での理想的な「男性像」という、言わば「絵に描いた男性」です。

ですから、何か目的を持って行う筋トレの結果出来上がった体と、ボディビルディングで仕上がった体は明らかに違いが生じるということです。

この言葉が適切とは決して思いませんが、わかり易く言えば「自然」と「不自然」ということになると思います。

 

そしてさらに踏み込んで、先ほどナルシシズムについてですが、

人間の身体も精神も必ずバランスを取ろうとします。本人が気づいていなくてもそうしようとしているわけです。

自己愛の性分野の傷・溝、というのは男性で言えば「自分は男だが男らしくない」と本人が感じている。と言い換えることができます。

ということは、その部分を必ず補填しようとするわけです。つまりその傷・溝を埋めてバランスと取ろうという働きが生じるということです。

そしてこれは外部から補填しようとする場合と、自ら生産しようとする場合の二つがあります。

外部からの取り込み(自分に足りない(と思っている)男らしさ)を他人から埋める作業が同性愛であり、最終的には同性間における性的接触になります。

三島の文学にこうした色彩が反映されているのもここに大きな理由があると思います。

 

そして自ら生産しようとするのが今回の話のナルシシズムなのですが、

では自ら生産するとはどういうことかと言うと・・・・

「なりきる」ということになります。

理想の自分になりきることによって、自ら男らしさを作り出し、それを自らの性分野の傷・溝に補填するという作業を繰り返すわけです。

こういうことを言うと難しく聞こえますが、このなりきるというのは実は結構よく目にすることです。

最も代表的なものが、4~5歳くらいの男の子が、ナントカライダーになりきりますよね。あれは明らかに自分で男らしさを生産し、それを自分で受け取っている状態だと思います。

ですから「理想的な自分」になりきることで、自分で男らしさを生産し、それを自分で受け取っているということになるわけです。これがナルシシズムの本質だと思います。

 

さて

この「理想」について言えば、何も三島由紀夫という著名な人物に限ったことでなく、

私たち市井の人間も日々こんなことをしています。

理想的な仕事、理想的なパートナー、理想的な生き方、理想的な暮らし・・・

と「理想的な〇〇」と言われると、それがスッと私たちの頭の中に入り込み、

あたかもそれが自分にとっての理想であるように勘違いをしはじめ、

結局何か物を買わされたり、自分が本当にやりたいことを置き去りにしていたりして、

周りを見渡したら、同じように誰かに提示された「理想的な〇〇」を目指した人間が溢れかえっていたということになるのです。

やはりこれも、劣等感を大なり小なり持っているから、こうした「額に飾られた理想的な自分の姿」を見させられることによって起こる現象だと思います。

 

三島の劣等感は、間違いなく彼の文学作品に大きな影響を与えたどころか、それがエネルギーの根幹をなしていたと思います。

そしてそれは文学作品だけでなく、自らの生き方、そして死に方という理想へと突き進めることになりました。

彼が「楯の会」という団体を立ち上げたことは有名ですが、

恐らくですが、この会の立ち上げ、そして活動の最中、彼の頭の中をずっと支配していたのは・・・

「軍隊に行けなかった自分」

だったと思います。

どんなに強く、規律正しく、理想高くあっても、

そして軍帽・軍服・軍靴そっくりの楯の会の制服を身にまとっても、

心の奥深くに「軍隊に行けなかった自分」がいて、

その姿がいつもチラつくからこそ、つまり劣等感があるからこそ、

彼はストイックに男らしさを求めざるを得なかったと思います。

政治的な主張はもちろん彼がこの国の現状と行先への憂いからこそのものだと思いますが、

怒られるのを覚悟で言えば、これも「男らしさ」を求めて手繰り寄せた「品々」だったように思います。(言い過ぎかなぁ~)

このように理想を追い求めるという生き方の末に、自決を最高の死に方と捉え、あのような最期を遂げたのだと思います。

 

ただ・・・

やはりこれは劣等感という「悪魔の勝利」なんだろうと思います。

 

一日遅れですが、三島・森田の自決の日にそんなことを思いました。

みなさんは、いかが感じましたでしょうか?

この辺で終わりにしておきます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。