『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

『「育ちがいい人」だけが知っていること』の本質

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

ネットのとある番組で

『「育ちがいい人」だけが知っていること』

という本について、パネラーが意見を述べていました。

 

私はこの本を読んでいませんし、読む気にもならないのですが、

その番組を見ただけですが、ちょっと意見を述べてみようと思います。

というのも、結構売れている本みたいなのですが、

この本のAmazonのプレビューを見ていくと、

かなり批判的な意見も寄せられていて、中には精神的に嫌な気持ちになる人もいるみたいなので、どちららかというと、そういう方々に対して私の方から言えることがありそうだな。と思ったからです。

 

 

先ず、当たり前ですが、人間は生まれてくる家や環境を選べません。

王様や貴族の家に生まれる人もあれば、経済的に貧しかったり、親がいなかったり、色々です。それはどうすることもできません。

しかし、そう簡単にあっさり腑に落とすのは難しいのはよくわかっていますが、

これらは「あなた」ではありません。あくまでも「あなたの環境」です。

その環境から様々な影響を受けるのは間違いありません。

しかし、繰り返しますが、「あなた」と「環境」は切り離すことができる、別のものなのです。

 

「育ち」にコンプレックスを感じるということは、ご自身の「環境」を他とを比較した時に、劣っている・下である。というような自己評価を下しているのだと思います。気持ちはよくわかりますが、やはり何度も言うように、これは「あなた」ではないのです。

当たり前の事を言っているのですが、多くの人がこの切り離しができないのです。

自分の家や環境が良い、悪いとそれぞれが勝手に判断をして、優越感を感じてみたり、逆に劣等感を感じてみたりするのです。

 

その意識を変えましょう。

「意識」とは「目」だと思って下さい。

意識という目が、「環境」という「外」に向いていることにまず気づいて欲しいのです。そして、いつまでそれを続けますか?どこまでその意識を目を広げれば気が済みますか?つまり自分と他人の比較をどれだけすれば納得しますか?

知人・友人の範囲ですか?お住まいの地域ですか?日本中ですか?世界中ですか?

最大でも120年くらいしか生きられないのが私たち人間です。

終わりのない「比較の世界」で生きるには、あまりにも短い人生なのです。

 

もうお分かりですね、

ですから、その意識の目を「内」に向けて欲しいのです。

つまり「あなた」にです。

(ここからは「あなた」を「私」と言い換えます)

 

「私」は一体何者なのか?

 

と言う問いを、自身に問い続けて欲しいのです。

そして、

「私」は何が好きで、何がしたくて、何を求め、何をすると心地よくて・・・

とご自身をとことん知る作業に徹底するのです。

すると・・・

 

「私」という存在の素晴らしさに気づきます。

自らの長所も短所も、全てをひっくるめて、「私」という唯一無二の存在の尊さを体感します。

「そんなのムリだ」と思うかも知れません。それは「環境」つまり「外」に目が向いているからそう思うのです。

内側、つまり「私」という人間に対して、完全に意識の目を向けることができれば、誰しも、自分の存在の尊さを知ることができるのです。

 

はい!これが「育ち」に直結します。

 

「育ち」とは「自他への尊重」の表れです。

「私」という存在を、如何に大切に扱うか、

「他人」という存在を、如何に大切に扱うか、

その態度が、礼儀やマナーという「形」(行動)として表れるのです。もちろん「言葉」としても表れます。

 

つまり、いくら「育ちがいい」(いわゆる「良家の子女」)

と言っても、自他を尊重する気持ちがなければ、ただのパントマイムです。

(※パントマイムを蔑んで言ってるわけではありませんのであしからず)

逆にいくら貧しかったり、過酷な環境にあっても、それでも自他を尊重する心があれば、必ず美しい所作、美しい言葉となって表れます。

それが他人から見た時に、その人の品格として伝わるのです。

 

この本にそうしたことが書いてあるかどうかはわかりませんが、

何かこの本を読んでコンプレックスのようなものを感じた人がいれば、

是非参考になさってみて下さい。

テクニックを必死に身に着けようなんて絶対にしないでください。

 

私たちは「私」という存在に意識を向け続けるべきなのです。

 

それでは今日はここまで。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。