『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「性」と向き合う 第2章 自己愛と性

さて、前回の続きになります。

「自己愛」とは「私とはこういう人間である」という自己認識だと申しました。

例えば、

私は絵を書くのが好きである。

私は人前に出るのが嫌いである。

私は走るのが得意である。

私は臆病な性格である。

というように、「私」という人物を、私自身がこのように「説明」するようになるわけです。これは幼い頃から、様々な経験をする中で、他人などと比較することによって、獲得していきます。

あらゆる面・ジャンルから「私」を説明することができますが、

その中に

「私は男である」「私は女である」

という「性」の分野においても説明することができます。

「性」というのは見た目ですぐわかるものだと思いますが、

それはあくまでも見た目であって、心・精神は別です。

私たち人間は、生まれてきてから4歳・5歳くらいまでは、自分の性別が男か女かというのは非常に曖昧なのです。

しかし、それぞれの「感性」に基づいて、男の子であれば「男らしい」もの、

女の子であれば「女らしい」ものを、どんどん取り込んでいき、

「私は男である」「私は女である」と自分という存在を認識していくわけです。

 

ここでは話が広がり過ぎるので、私が男性なので男性に絞ったお話を致しますが、

悪魔の勝利か?(三島・森田の自決から) - 『神主の遺言』

でも少し触れましたが、この「男らしさ」というのは、

外から取り込む方法と、自ら生産する方法の二つがあります。

そして、そこで非常に重要になってくるのが、同性の親(ここでは父親)の存在です。

男の子は父親の男らしい部分、つまり「男性性」を取り込むことによって、自らが男であるということを認識していきます。

つまり簡単に言えば、「真似をする」というわけです。

父親の男らしさを受け取り、そしてそれを真似をすることで、「私は男である」ことを自ら理解していくというわけです。

これが「自己愛における性分野」の話です。

 

しかし、「何らかの理由」によって、この作業が「未完」の状態になる場合があります。

真っ先に挙げられるのが「父親の不在」です。この不在とは物理的にそこに存在しないという意味ではなく、父親としての役割を家族の中で果たしていない。という意味に近いです。ですから物理的に父親がいないとしても、それに代用される人物からも受け取ることは十分に可能です。

しかし中には「男らしさ」(男性性)を上手く受け取ることができず、イメージとしては10受け取る所を、3・6・8などといったように、不足分が生じているという感じです。つまり個人差が大きいのです。

この不足分を私は「自己愛における性分野の溝・傷」と呼んでいます。

 

また、個人の「感性」として、「男らしさ」を拒否する場合もあります。

わかり易い例を言えば、例えば美しいものに惹かれる、争いより調和を求めると言ったような女性的なものに対して、生まれ持った性質に基づいて、魅了される人も中にはいます。こういう人は、やはり例えば、野球や格闘技、車や電車などと言った男性的なものは拒否する傾向にあるでしょう。当然「男らしさ」というものが他者と比べれば不足し、溝ができます。

 

こうした環境的要因・感性的要因が「複雑」に絡み合い、人間は成長していきます。

そして、私たちは凡そ思春期頃から「性」を主に外から取り込もうとします。

しかしこれは幼少期における、自らの性を確認するための取り込みではなく、

「生殖活動」に通じる性の取り込みです。

つまり、今度は異性が持っている「男らしさ」(男性性)、「女らしさ」(女性性)を取り込もうとします。

 

ここで非常に重要なことは、私たち人間は「不足分を補完」する生き物です。

別の言い方をすると「バランスを取ろう」とするのです。

これも昔の記事ですが、

「性」のお話し - 『神主の遺言』

私たちは身体的・精神的に「男」「女」と別れているように見えますが、

男だからと言って、心身ともに女性的な面がないのではなく、単に「縮小」しているに過ぎません。逆も然りです。

と言うことは、男性は「女らしさ」が縮小しているということになります。

そして、不足している面を補う方法として、最も手っ取り早い感情が、その部分を「好き」だと思うことです。

こんなこと、いちいち言わないでもわかることですが、

お腹が減ったから、ご飯を食べる

不安を感じたから、安心を求める

恐怖を感じたくないから、何かに依存する

というように、必ずバランスを取ろうし、それを求める時に「好き」という感情が伴うのです。

ですから、男性が女性を求めるというのは、自身の不足した「女らしさ」を補うという仕組みの上に成り立っているわけです。

私たちはこの世において、それぞれが「分離」して生きていますが、

「性」というのは、このようにお互いの不足した「性」をお互いが補い合うという習性を用いて、惹かれ合い一体となって、そこから「生命」が生じるようになっています。

 

では同性愛とは一体どういう仕組みなのか?と言う話になってきます。

それは次回に譲りますが、もうここまで読めばだいたいご理解頂けると思います。

 

お読み頂きありがとうございます。