『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

合わない神社

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

2月に入って最初の土曜日。皆さま如何お過ごしでしょうか?

実は2月は「恒例祭」と言って、毎年行う恒例のお祭りが多い月です。

2月2日 追儺祭(節分祭):立春を前に邪気を祓うお祭り

2月11日 紀元歳(建国祭):日本の国の始まりを祝うお祭り

2月17日 祈年祭:今年一年の豊作を願うお祭り

2月23日 天長祭:天皇陛下のお誕生日をお祝いするお祭り

コロナの影響で大々的にできませんが、お近くの神社でもこれらのお祭りがご奉仕されていると思いますので、お気に留めて頂き、ご家族でもご友人同士でも、会話の中にちょこっと上記のお祭りやその趣旨について、語り合って頂ければ幸いです。

 

 

と言う事で今日のお話は、タイトルの通り「合わない神社」について。

神主をやっていますと、「どこかお勧めの神社ってありますか?」

に加えて、「合う・合わない神社ってありますか?」と聞かれることがあります。

ユーチューブやその他の発信の中に、こうしたことを述べておられる方がいて、それを受けての事だと推測しています。

 

私は「私は全然ないけど、人によってはあるのかも知れません。」

くらいにしか言っていません。

私も今までものすごい数の神社を参拝してきましたが、

「うわっ!ここの神社合わないなぁ~」と思ったことはありません。

ただそれは私が鈍感なだけかも知れません。

間違いなく「敏感な人」というのは存在しますから、そういう人の中には、拒否反応みたいなのが生じる場合もあるのかも知れません。なので「わからない」のです。

 

 

しかし、私の過去の経験で、一回だけこんなことが起きたことがあるので、そのお話を致します。

もちろんその神社のお名前も、地域も記しませんが、

とある神社を参拝する計画を立てました。

神社の名簿というのがあって、それを見てすごく気になったのでお参りすることに決めたのです。

なぜその神社が気になったかなのですが・・・

宮司不在」とあったからです。

何らかの理由で宮司さん、つまり神社を管理する人が登記上存在しないとのことだったからです。

みなさんもお近くに宮司神職がいない神社がたくさんあると思いますが、これらも一応どこかの神社の宮司が「兼務」するという形になっているので、宮司不在というわけではないのです。

しかしそこの神社はそうではなく、事情が他と異なるようでした。ですのでどんな神社が見に行こう。と思ったわけです。

 

休日に電車に乗り、最寄の駅について、その神社に向かいました。

予想通り、神社の社殿はかなり痛みが激しく、お世辞にも綺麗な神社、境内とは言えませんでした。

お参りをしながら、どういう事情か知らないけど、管理者がいない神社というのは、こうなってしまうんだな・・・・

 

から始まって・・・・

 

こんな立派な神社なのに、本当に神様が気の毒だ、社家はどうしちゃったんだ、氏子さんはどう思っているんだ、

そして私ならここをこうする、ここを修復する必要があるからこれくらいの寄付を集めないと、年中の行事もしっかり奉仕しないと・・・云々。

 

と次から次へと、「ダメ出し」と「自分ならこうする」が湧き出てきました。

気分はすっかりそこの神社の宮司だったと思います(^^;

 

で、どうなったか・・・

気持ち悪い、頭痛い。

そしてとにかく、言いようのない「ソワソワ感」が続いて、

何日も夜寝れない日が続きました。

 

明らかのその神社をお参りした日、というよりその帰り道からこうした症状が出たので、あの神社が原因であることはすぐに理解しました。

しかし、なぜ今までこんなことがなかったのに、

あの神社に限って。という疑問は解決されませんでした。

ところが数日後に解りました。

 

私は「憐れんだ」のです。

つまり簡単に言えば、「かわいそう」と思ったのです。

 

傾きそうな社殿を見つめながら、「何てかわいそうなんだ」

そして「許せない」と思いました。

恐れらく、それが良くなかった。

私が立場をわきまえず、いわゆるよく言う「上から目線」でその神社の神様を見ていたんだ。と気づきました。

「恐れ多い」「申し訳ない」というならよかったのでしょうが・・・

 

宮司不在」

 

というその見慣れない妙なワードに反応し、私の正義感と言う名のルサンチマンが起動したのだと思います。

それが、激しい思いや言葉となり、結果的に自分自身を傷つけることになったと、

だいぶ時が経った今、そう分析しています。

 

こういうことを言うと「引かれる」のはわかっていますが、

私は実は恨みっぽい性格です。

先に挙げた「ルサンチマン」という言葉は哲学者ニーチェが生み出した言葉だそうですが、初めてこの言葉に出会った時、「あ、私のことそのものだ」と思いました。

そして、これははっきり言って、父親から受け継いだものだと確信しています。

つまり逆を言えば「世代を越えたテーマ」でもあると言う事です。

 

またついでに言うと、このルサンチマン(恨み)の感情の近くには、

「羨望」という感情があります。テオドール・ジェリコーというフランスの画家が描いた、「強烈な羨望に囚われた女性の肖像」というのがありますが、

あれを始めてみた時も、「あ、私そのものだ」と思ったことをハッキリと覚えていますし、「ドキッと」したのを思い出します。

いつかこの作品の本物を見に行きたいと思っています。できれば複製を自分の家の玄関に飾ろうとまで思っています。

それだけ私にとって、このルサンチマンと羨望という感情は、この人生を暗くさせている最大の原因であり、且つ克服すべきテーマだということです。

 

話がズレましたが、

この神社が私にとって「合わない神社」であるかどうかわかりませんが、

私の中にあるテーマを刺激したことは間違いありません。

それが頭痛などの身体的な症状として表現されたようです。

逆を言えば、こうして考えるきっかけを与えて下さった神社ですから、

私にとって重要な神社だったのかも知れませんが。

 

いずれにせよ、私のこの話は特殊な事例ですので、

一般の皆様の参考になるとは思えませんが、

まぁこんなこともあるんですよ~くらい覚えて頂ければよいのだろうと思います。

 

 

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。