『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

建国記念の日・紀元節をお祝いし、改めて「神道」について考える。(追記しました)

みなさん、こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

今日は「建国記念の日」ですね。

元々は「紀元節」と言います。私は並記するようにしています。

日本の国の始まりを祝う大切な日です。

心よりお祝い申し上げますと共に、祖先たちの歩みに深く感謝申し上げます。

今日は改めて、私たち日本人、そして神道について考えてみます。

 

 

例えば、日本人であるあなたが「外国」で暮らすことになったとします。

庭付き一戸建ての素敵な家に住んでいます。

ある日花壇を作ろうと、庭の土をスコップで掘り起こしていたら・・・

カチン!と何かに当たりました。

手に取ってみると、不思議な形をした「石」でした。

水洗いして、泥を落とすと、その石は、なんとな~く「人の形」にも見えます。

気になったあなたは、その石を家の中へ持っていくことにし、

リビングの棚にポンと置いておきました。

 

次の日

あなたはいつも通り、会社に出勤すると、

なんと念願だった部署への配属が決定し、昇進することになったのです。

思いがけない出来事にあなたは心から喜びました。

ウキウキ気分で家に帰ると、家族の一人がいつものようにリビングで寛いでいました。

あなたの顔を見るやいなや、「今日ここへ帰ってくる途中、車に轢かれそうになったんだ!間一髪の所で回避できた!」と言いました。

もちろんあなたも、思いがけない昇進の件を話し、お互いにとって今日がものすごくラッキーな一日であったことを喜んだのです。

 

・・・・ん?

あなたはふと、昨日掘り起こした不思議な石の事を思い出し、視線をそちらに向けました。

「ひょっとしたら、この石が我々に幸運をもたらしたのではないか?」

あなたはその石を手に取り、ポンと乱雑に置いた事に気が引けて、清潔なハンカチを折って、その上に置くことにしました。

 

その後も、あなたとあなたの家族に大小さまざまな幸運が訪れるようになりました。

これは間違いなくあの石のお陰であると確信したあなたは、

この石に名前を付け、専用の棚を作って、周囲を綺麗に飾り、朝晩お水などを供え、感謝の言葉をかけるようになりました。

この石を掘り起こしてからちょうど1年経った日には、家族そろってパーティーまで開催し、日ごろの感謝をこの石に伝えました。

 

 

この辺りで止めにしますが・・・

この話を読んで、何か変だな~と思いましたか?

こんな話ってありそうだなぁ~とか、似たような話ってあるよなとか、思いませんでしたか??恐らくあると思います。

そして、このお話の中に、皆さんが普段「神道」と言っている部分がたくさんあるわけです。

・この石がなんとな~く気になった事

・この石が幸運をもたらしたのではないかと思った事

 これらはいずれも、この「石自体」に不思議な力があるのではないか?とあなたが「誰に言われるわけでもなく」感じた部分です。そして、

・ハンカチの上に丁寧に置いた事(清浄の確保)

・名前を付けた事(神号を奉る)

・専用の棚(祭祀に相応しい場所の選定)

・綺麗に飾る(祭場の装飾)

・朝晩水などを備える(祭祀の開始)

・感謝の言葉(祝詞

・一年後のパーティー(例祭)

 

これで「神道」って難しい本(経典)を読んだり、

誰か(教祖・指導者)のありがたい話を聞いたり、

厳しい(修行)をしたりするものじゃないって、お気づきになると思います。

神道とは、あなた(日本人)の「感覚」の表れなのです。

(「祭祀」という部分は宗教的ですので、そこには専門の祭祀者(神主・神職)が必要になってくるとは思います。)

ですから、やはり私としては、神道を宗教とカテゴライズするのはムリがあるように感じます。

神道神道」なのです。

 

そして、なぜこのお話を「外国」にしたかと言うと、

あなたがこの地(外国)を離れれば、この石への信仰は消滅するからです。

仮にあなたがこの地を離れ、この石をこの場所に留め置いたとしても、

外国であなたと同じようにこの石を祀る人はいないでしょう。

もし日本人以外の人に託しても、せいぜいどこかに大事に仕舞われるくらいです。

かつて日本には「外地」と呼ばれる海外領が存在しましたが、

その地の「全て」に大小さまざまな神社がありました。

しかし敗戦と共に、これらの領土を放棄した結果、そこにいた日本人は「内地」へと引き揚げました。

そして、そこにあった神社のほぼすべてが、廃社となり今日に至ります。後に復興した事例もありますが、本当に稀有な事例です。

日本人の引き揚げという「引き潮」と共に、そこにあった神社もなくなっていったのです。

まさに「神社」とは日本人がいる場所に「のみ」できるものなのです。

だって、日本人の感覚の表現ですから。

 

ゆえに、現在でもほんの一部存在する「海外神社」は日系移民が住む街や国に見る事ができるわけです。特にハワイ・ブラジルが有名ですが、その他にも神社ではありませんが、パラグアイという国の日系移民の街には、立派な赤い「鳥居」が建っています。

遠い異国へ移民として渡った彼らの祖先とその子孫が、故国日本を思って建てたものです。やはり彼らの中の日本人としての感覚がそうさせたわけです。

 

かつて日本が海外へ色んな思惑を持って進出して行った時、同時に神道もやって来て、そこにいた人々に、神社への拝礼や天皇への忠誠を強要した。という人がいます。

そういう部分もあったと思います。

しかしこれは、日本人がやって来て、その日本人の感覚が表に出た結果、神社というものが出現したというのが、私の考えです。

そして、「これは(神社)いいものだから。」というある種お節介みたいな感じで、現地の人たちにも拝礼を勧め、日本人指導者や軍人たちも、もちろん同じ感覚を持っていますから、これが公的なアナウンスとなっていったと思います。(官民前後の逆はあると思いますが。)

天皇への忠誠も、当たり前ですが、日本人の感覚です。「教育」の部分もありますが、私は教育の域を越えた、日本人の持つ感覚の方がもっと根本的なものだと思います。でなければ、これ程ナントカ党やニッキョウナントカなどが、天皇や皇室へのネガティブ工作をここ75年以上続けてきても、老いも若きも「なんとな~く」天皇や皇室を大切なものだと思っているのは、やはり日本人一人ひとりが生まれながらに持つ感覚に依拠している以外にないと思うのです。

 

ですから!

日本人以外の人に、神社なんて拝ませちゃダメだった。天皇への忠誠なんか求めてはダメだったのです。

大きなお世話!いい迷惑!という訳です。(例外もありますけどね。)

この辺りの話をすると長くなるので、止めにしますが・・・

ただ一点だけ、やはり民族の「人口増加」というのは、はっきり言ってロクな事がないなと思います。これは日本人に限らず、世界史を眺めると誰でも感じることではないでしょうか?「外に出て行こう」と自然と思いますからね。

 

 

ということで、今日はここまで。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。

良い休日をお過ごしください。

 

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