臣道(しんとう)
こんにちは。
久しぶりのブログです。
昨日は本当に久しぶりに神主のお仕事でした。
昔から知り合いの神社の宮司さんに頼まれて、4年ぶりに行われる例祭のお手伝い。
各神酒所を巡って、1日目は神輿の御霊入れ、2日目は御霊抜きでした。
私はこれまで濃く関わった神社が3社あってすべて「氏神神社」です。
氏子さんがいる地域の神社ばかりでした。今回お手伝いした神社も同じです。
ユーチューブでも申しているのですが↓↓
《神主の遺言》氏神神社の神主だからこそ【vol.208】哲学・思想は自然と生まれるもの - YouTube
氏神神社に奉仕している神主にとって、最大の喜びを一言で言えば・・・
「神も人も等しく尊い」
ということに気づかされるということです。
今回お手伝いしたお祭りでも、氏子さんたちが何日も前から準備をし、炎天下の中大人たちが子供たちを楽しませようと色々と工夫を凝らしていました。誰に頼まれたわけでも、お金をもらっているわけでもありません。限りあるそれぞれの人生の時間を、自分以外の人のために使っておられるのです・・・
私たちは、神社の賽銭箱の前で手を合わせます。
それは当然その神社に鎮まる神様を尊いと感じているからです。
しかしそれとまったく同じように、こうした人々の「真心」も尊いのです。
心の中に深く感謝を致しました。
今回もそれを痛い程教えてもらったのです。
こうして神社を辞めてしまった身ですので、より感じたのです。
そして私は、今申しました、
「神も人も等しく尊い」
という私の人生における最大の気づきを、許されるのであれば、
今後も神主として、日本の人々に伝えていきたいと願っています。
特に心に苦しみを抱え、持っている力を現在充分に発揮できていない人に、
決して人間には上下などなく、生きているだけで尊いのだという「真理」を僭越ならが伝え、一緒にそれを体感したいと思っています。
神主は仲執持(なかとりもち)と言われます。
神と人との間に立つ者です。
そして繰り返しますが、「神も人も等しく尊い」存在です。
神主はシーソーの中間に立っています。
このシーソーを均衡に保ち続ける、絶妙なバランス感覚が求められます。
そしてここに立つ者にとって最も大切なことこそ、
「自己蔑視」をしないということです。
神主が自己蔑視すれば、神の威を借り、人を蔑んで、己の心を癒そうとします。
或は人に諂い、慇懃無礼を働くことで、神の威を貶めます。
神主こそ、まず誰よりも、自己の存在の尊さを知り、今こうして命があることに感謝しなければなりません。
私はこの非常に難しいバランスが求められる道を・・・
「臣道」(しんとう)
と呼んでいます。
「臣」とはお仕えするということです。
神と人(己を含む)、それぞれの尊さをいつも意識し、
それぞれに対して、正しい「礼」を取る。もちろん己に対しても。
私はこの道を歩んでいきたいです。
正直にそう思いました。
たった今、日課の瞑想を終える間際に、そんなことを思いました。
乱文失礼致します。
みなさま、どうぞお自分を大切になさって下さい。
では!