参道の真ん中は「神様の通り道」は誤りです。
おはようございます。
東京は外出自粛が出ています。
どなた様もご自分の安全、そして周囲への安全を心掛けましょう。
さて
今日はタイトルの通り
「参道の真ん中は「神様の通り道」は誤りです。」
というお話です。
「祭り」の語源と超大事なお話し
でも少しく触れた通り、大昔は「神社」という建物を作って、
言わば、そこへ神様に常駐していただくというスタイルではありませんでした。
年の一度や数度、特定の「禁足地」のような場所に、神様をお招きして祭りを奉仕していたわけです。
万葉集にとても有名な歌があります。
ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
(意訳)
神様のお社がなければ、この春日野に粟の種を蒔くのになぁ
という歌です。この歌は許されない恋を詠んだものと言われていますが、その議論は置いておいて(意訳)そのものに注目してもらいたいのです。
神様のお社とありますが、この「お社」というのは建物を指しているのではないと言われています(折口信夫)
空き地に注連縄を張り、その中に柱を立てた状態を「社」と言ったそうなのです。
つまり、先ほど私が申した「禁足地」というわけです。
この歌の作者は「ここが禁足地じゃなかったら、畑にしてしまいたい」と言っているわけです。
ということは、はやり当時、神様を祀る場所というのは、普段人の進入が禁じられた場所だった。ということになります。
しかし、時代が過ぎ、仏教の影響を受けることによって、
それまでの「神祭り」も変化していくことになります。
仏様のように、いつもお寺に仏像がお祀りされ、いつでも拝めるように、
それまでの日本の神様も、いつも建物にいてもらって、いつでも拝めるようにしたわけです。
そこで生まれたのが「神社」だったわけです。(当時は「ヤシロ」とか「ミヤ」とか呼んでいたと思います。)
従って!(ここからが重要)
「参道は神様の通り道」というのは、「神様に神社に常駐してもらう」という神社が存在している根本精神に反するわけです。
だって「通り道」なのであれば、極端な話し神様は9時~5時は神社に居て、時間が過ぎたらどこかへ帰る。みたいな話になりかねません。
それに、神主が祝詞を奏上する際に、ほぼ100パーセント使用する語句として、
「〇〇神社に鎮まります」というものがあります。
「鎮まる」つまり「鎮座」する。というのは読んで字のごとく「そこにいらっしゃる」ということです。また「鎮(静)宮の常宮」という語句もこれをさらに強調したものです。
ですから、この事からも神様が参道の真ん中だろうが、端っこだろうが、通ることはない。ということです。
神職であれば「神社祭式」を修めますが、今私の手許に『祭式大成 男女神職作法篇』(小野和輝著)がありますが、そこの「祭場の位次」の「正中」の冒頭を見ると、
正中は特別な位置で、単に室の真中という意味ではなく神座の真正面を云ふのである。云々
とあります。
先ず確認するべきは「室の真中」でしょう。つまり参道の真中は「正中」とは呼ばない。ということです。この時点で「参道の真中は正中と言って神様の通り道云々」というのは誤りだということです。
確かに参道の真中も神座の真正面ではあります。しかし「神座」とあるように、すでにそこには神様はお鎮まりです。「空席(座)」ということはあり得ません。ですからやはり神様は参道を通うことはないのです。
一般の方はまだしも、この「参道の真ん中は「神様の通り道」」と言う神主が多すぎるのです。
先ほども触れた通り、神様が神社という建物に常駐してもらうというのが、神社の根本精神ですから、それが欠落している言われても仕方ありません。
では、なぜこんなことが起きたのでしょう。
頭をフル回転させて簡潔に語ると「思想がないから」です。
実はこの参道の真ん中は「正中」と言って一番尊い場所であると言ったのは、某有名スピリチュアリストで、今でもその動画はユーチューブでみることができます。
それがやがてこの方がおっしゃったかは不明ですが、「神様の通り道」ということになっていったのです。
しかしいずれにしろ、一般の方は、ここに「思想」を感じたわけです。
「なるほど神道にはこうした「決まり」があり、利益を得る上で必要なことなのだ」と。
しかし、これはこの某有名スピリチュアリストの思想であって、神社神道の思想ではありません。ところが残念ですが、神職が同じうようなことを言っているということは、先ほど述べた「神社が存在する根本精神」という「思想」を忘却あるは、学習していないか、そもそも普段から何も考えていないかのいずれかです。
「参道の真ん中(正中)は神様の通り道」と言ってる全国の神主さんたち・・・
もう一度よ~く考えてみて下さい。お願いします。
※ただ、私は参道だろうが、普通の道だろうが、絶対に「真ん中」は歩きません。
道とは行く自分があれば、来る相手があるものです。端を歩きます。
これが日本の精神だと信じます。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。