天岩戸神話の「神髄」をお話します。
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
養花天の下、境内の桜が満開です。
さて、今日はこんなお話し
・誰でも知っている一部上場企業の社長さんから、常識を供えた社会人であれば、誰でも敬語で接し、丁重に扱ってもらえます。
・何か祝宴や集会などがあれば、上席に通され、挨拶を求めらることもあります。
・現場への送り迎えは、ハイヤーが付いたり、社長さんの車だったります。
・帰り際にはお礼と共にお土産をもらい、お車代までつくことがあります。
・持っている荷物があると「お荷物お持ちします」と言って手ぶらになります。
・「わからないので教えてください」とこちらから教えることが多いです。
・こちらから何かしてあげると、いつも「ありがとうございます。」と言ってくれ、中には泣いて喜んでくれる人もいます。
などなど。
これ・・・・全部、私の経験の話です。
つまり、神主をやっていると、こういう経験を必ずする。ということです。
しかも、神主になった初年度からです。
私が神主になったのは、実質25歳からです。
年端も行かぬ25歳の若者が、上に挙げたような経験をするわけです。
通常、社会人になりたての、多くのフレッシュマンは、会社で厳しく指導され、取引先には相手にされず、半人前扱いされるものです。
それが、私には「一切」ありませんでした。「私には」というより「神主」にはほとんどないのです。(神社内では色々あるかも知れませんが。)
ですからそれだけ、
「神主さん」
という仕事は尊い仕事だということです。
私はそれを最初からわかっていました。
子供の頃から、神主とはそういう存在だということを知っていました。
「闘いが怖い」ために、「自分は弱い」と思い込んでいた私にとって、この仕事(立場)は自らの身を守るために最適な「安全圏」だと察知したのです。まさに神社の世界に「逃げ込んだ」と表現してもいいかも知れません。
ですから中には「勘違い」が生まれます。
つまり「自分は偉い」という勘違いです。
そう口に出さなくても、態度に出てしまう場合だってあります。
私だって、本当に、本当に、本当に、気を付けていますが、急いでいたり、上の空だったりして、気が緩んでついつい横柄な態度を取ってしまったと、後で後悔、反省することがあります。
物を受け取る時の態度に感謝の気持ちが表現されていなかったりとか、
わざわざこちらへ出向いてくれたのに、そのお礼を忘れてしまったりとか、
いつも良くしてくれる人に感謝を伝えていなかったりとか・・・
はっきり言って、実は日々こういう自分のだらしなさみたいなのとの闘いです。そうでもしないと、この仕事をしている私のような人間を無条件に大切に扱ってくれる方々に申し訳ないと思っています。
ただ・・・これは聞いた話なのですが、
「俺が祝詞を読んでいる最中は、皆がひれ伏す」って言う神主がいるらしいです。
祝詞を読んでいる最中に皆が平伏(頭を下げる)のは、その祝詞を聞いておられる神様の「行動」に対して行うものであり、決して祝詞を奏上している人間が尊いからではありません。
しかし、この神主は「自分は偉い」と勘違いしてしまっているために、こんな恐ろしい発言を平気でしてしまうのです。
また、これは神主ではなく、僧侶の話ですが、
法事があって、お寺にタクシーがその僧侶を迎えに行った際に、
「緑のタクシーかよ」と言ったそうです。
自分は黒塗りの車しか乗らない。という意味です。
これも「自分は偉い」という宗教者ならではの勘違いだと思います。
実はこんな話は枚挙にいとまがありません。
ほんとね・・・
ただただ恥ずかしいですよね。
斯く言う私だって、先ほども述べた通り、知らず知らずのうちに、誤った態度や言葉が出てしまう場合だってあるのです。
ですから、よっぽど気を付けないと「とんでもない事」になるでしょう。
つまり、神道や仏教に携わる者への不信を買うわけです。
己の信仰を守るために、今すぐ宗教者が取り組むべきことが、
この「自分は偉い」という勘違いを捨て去ることだと思います。
そして、
この日本どころか世界中の人々から、最上級の待遇を受ける、
言わば「大神主」がいるじゃないですか。
そう、私たちの
天皇陛下です。
「私は一番偉い!」なんてオクビにも出しません。どこまでも謙虚でいらっしゃいます。
そしてこの日本の「天皇像」というのは、私たち日本人が作り上げた理想なんですよ。
「こういう人が日本のトップ・統合であることが良い」という日本人の思いを受けて、天皇陛下御自身が一生懸命、それに近づけようと日々ご努力をなさっているのです。
だから、神主はじめ(私を含む)宗教者は陛下を見習って「自分は偉い」なんて勘違いするな!!!
でこのブログを締めくくったら、私は単なる説教神主、薄っぺら神主で終わりです^^
もう少し本質に迫らないといけません。
でもとっても簡単です。
なんで陛下が「自分は偉い」と態度に出されないか。常に謙虚でいられるのか。
そこを考えれば答えは出ます。
ズバリ「命あるもの」が尊いことを知っているから。です。
生きてる。それだけで尊いのです。
威張る必要なんてないのです。誰かと比較する必要もありません。
今こうして、確かに生きていることが、何よりも尊く素晴らしいことをご存知だからです。
そして、それは周囲にいるすべての人々も同じことだと知っているので、尚の事威張る必要がなく、平等に接すればよいと思っておられるのです。
だから、天皇陛下は「鏡」を継承しておられるのです。
その「鏡」が尊いのではありません!!!
その「鏡」に映る「あなた」が尊いという教えを、
祖先から引き継いでいるのです。
天岩戸の神話の神髄はここにあります。
岩戸に隠れていた(つまりもう死のうと思っていた)
後に天照大神と呼ばれる女性が、差し出された鏡に映る自分の姿を見て、
「自分が尊い」と「勘違い」したのではありません!!
自分という「命」がそこに映っていることの尊さを知ったのです。
しかもそれを周りの神々(仲間)から教えてもらったのです。
だからこの以上のない「発見」を、子々孫々に伝え、
この「発見」に基づいて国を運営しようとして、今日まで続いているのが、
私たちの国「日本」なのです。
力がある者が上に立ち、国を統治する。という外国のやり方とはその精神が根本から違うのです。
「天照大神」というのは、その女性を「表す」お名前です。
天に輝く太陽のような神という意味です。
何が天に輝く太陽のようなのでしょう??
もうお分かりですね。
「命」です。
この女性だけでなく、周囲の神々、そして今に生きる私たちが持っているこの「命」こそ、「天に輝く太陽」に等しいものであるという「気づき」が、あの神話が語っている、神髄中の神髄なのです。
さあ
私たちは今日も確かに生きている。
苦しい事、辛い事、嫌な事・・・山のようにあります。
それでも、今日も生きている。
それだけで「天に輝く太陽」なんだと、私たちの祖先がその真理を発見し、
一人の国の象徴がその人生を通じて、私たちにその教えを態度で示してくれている。
今日もその私たちに宿る「命」に意識を向けていきましょう。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。