「〇〇してはいけません!」
おはようございます。
今日も爽やかに晴れわたっています。
空気が冷たいので、暖かくしてお過ごしください。
さて、今日も結構大事なお話です。
日本人の「思考」の変化のようなものについて考えてみます。
インターネットで様々な情報が手に入る世の中でホント便利なのですが、
その中には、神社や神道について語っているものもかなりあります。
色んなジャンルの人が、神社でのマナーなどを教えてくれていて、
少ないですが、神職が語っているものもたまに見かけます。
ですので、以下の私の考えというのは、こうした人々の発信に基づいて、総合的に考察してものであり、決して誰か個人の意見などに対して、批判や文句をつけているというものではないことをご了承下さい。あくまでも「全体的な傾向」に対しての意見です。
それではいきます。
・神社の参道の真ん中は歩いては「いけない」
・女性は月経中や産後は神社を参拝しては「いけない」
・身内に不幸があった場合は〇〇日以内は神社へお参りしては「いけない」
・犬を連れて神社へお参りしては「いけない」
・縁起的に敵対関係にある神社をお参りしては「いけない」
など・・・
神社をお参りする際に、上記のようなさまざまな「〇〇してはいけない」を紹介してくれる場合があります。(ていうか、かなりあります。)
上記の「〇〇してはいけない」を守ることによって、神様のご加護を頂くことができるというわけです。
中には全然検討違いのものや、少なくとも私は聞いた事がないものもあったりしますが、今回はそういうことを語るつもりはありません。
注目したいのは・・・
【禁止】
ということです。
「〇〇してはいけない」というのは、人々の行動を「禁止」するという意味です。
しかしご存知の通り、神道には「教え」はありません。
つまり、上記のような「〇〇してはいけない」とはっきりと書かれている神様の「教え」のようなものはないのです。
しかし、例えば古典や神社の由緒、或いは地域の伝承など、それぞれの物語の中で、上記のようなことをしたことによって、神の禍に触れたことにより、やがて人々の中で、これらが禁止事項として認識されるようになり、今日に伝わっているというものはかなりあると思います。
しかし、繰り返しますが、神道・神社の「教え」というわけでなく、どちらかと言うと、「日本人の知恵」というニュアンスで私は捉えています。
私もこの世界に入ってもう20年近くになりますが、はっきりとこれは「禁止」だな。と思えたのは一度しかありませんでした。
神職たちが集まる研修で、引率の指導者が「この中でアレルギーとかそれ以外で食べられないものがある人は教えてください」と研修生に訪ねました。
その中で「うなぎ」が食べられないという人がいました。その人はアレルギーとか嫌いとかそういう理由ではなく、その人がご奉仕されている神社のご祭神と「うなぎ」が深い関係にあり、先祖代々「うなぎ」を食べては「いけない」という教えを守っているそうです。まさに「禁止」というわけです。
キリスト教やイスラーム、その他の宗教でも、こうした「禁止」はあります。
豚肉を食べては「いけない」 偶像を拝んでは「いけない」のようにです。
→参照 神様の「教え」の意味
神様からの「教え」を守ることによって、「命」を守る・つなぐことができたのです。
しかし先ほどの「うなぎ」の話は例外で、日本は全然違います。
日本は「命」を守る・つなぐのは「本人次第」というわけです。
→参照 神道に「教え」がないは不正確
ですから、神様のご加護を得るのも、本人の行いが重要なわけです。
そこで最も大事にされたのが・・・
【遠慮】
です。
・神社の参道の真ん中を歩くのを「遠慮する」
・女性は月経中や産後は神社を参拝を「遠慮する」
・身内に不幸があった場合は〇〇日以内は神社へお参りするのを「遠慮する」
・犬を連れて神社へお参りするのを「遠慮する」
・縁起的に敵対関係にある神社のお参りを「遠慮する」
のようにです。
「禁止」されるのではなく、主体的に相手(神様など)のことを慮って、遠慮する・慎むというのが、実は日本人が長くとり続けてきた、神様や他人に対する態度の取り方だったのです。
一番最初の
・神社の参道の真ん中は歩くのは「いけない」
これはとある有名人がテレビで言い出したことによって、ものすごい勢いで多くの日本人に浸透してしまったものだと思います。(これは私は全くの誤りだと思っています。だって神様ってどっかから通ってくるわけじゃないから)
しかしこれもよ~く考えてください。
「道の真ん中って歩きますか??」
行く自分があれば、来る相手があるのが道です。
そのど真ん中を歩くのって、配慮に欠けていると言われても仕方ないですよね。
ですから、どんな道であっても「遠慮」しながら端を歩くものなのです。
或いは
・身内に不幸があった場合は〇〇日以内は神社へお参りするのを「遠慮する」
というのも、身内が亡くなって悲しみの中、お祝い事で神社に来ている人と接触することによって、余計な気を遣わせてしまったり、或いは「あの人つい最近身内が亡くなったのに、もうお祝いの場にきている」と言われないようにするために、一定期間は神社などの「ハレの場」に顔を出すことを「遠慮」し、謹みの時間を過ごすというわけです。
今まで「遠慮」するかどうか、本人の頭で考えていた日本人が、それをしなくなって、あたかも神様からの教えであるかのようなさまざまな「禁止」を受け入れるというのは、それだけ日本人の頭が西欧化・一神教的思考になっている証左だと思うのです。
神様からの教えがある宗教の様々な「禁止」というのは、それぞれの神様からの深い慈しみの御心に基づいているもので、とても尊いものです。
しかし現在みられる神社参拝マナーなどの「禁止」はそれとは異なり、
「禁止」を(ここ重要→)与えられることによって、思考停止してしまい、それによって、日本人独特のものの捉え方や発想が衰退してしまっているのではないかと思うのです。
要は「考えなくなった」ということです。
もう少し言うと、「相手を思わなくなった」ということになります。
この日本人の頭の西欧化・一神教的思考化というのは、今始まったことではありませんね。明治時代から始まったことです。
あまりここでは詳しく述べませんが、
「現人神」という言葉を、唯一絶対の一神教の神と同一視したことが、その後の日本にどれだけの損失をもたらしたかという問題と関わってくるのです。
そろそろまとめますが、
ありがたいことに、たくさんの人が神社・神道に対して興味を持って、実際にお参りをしたり、神道を意識してくれています。
過去の記事を読み返していただければわかりますが、私が言いたいのは、神道というのは宗教的な要素を含んでいますが、それだけでなく、そもそも私たち日本人の感覚として備わっているものだということです。
ですから、是非ともご自分のその「神道覚」を研ぎ澄まして、ご自分の人生を上向きにして欲しいと思うのです。答えはいつもご自分の中にあるということです。
私はそのお手伝いができれば幸いです。
それではまた!