『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

本当の憐み

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

 

 

今日は振替休日。

お休みの方は、お出かけもいいでしょうし、お部屋の片づけもいいでしょう。

有意義な一日をお過ごしください。

 

さて、全国の神社で疫病退散の祈願祭を奉仕しましょう。

の通り、昨日は

天皇陛下のお誕生日をお祝いし、御世の栄えを祈る「天長節祭」をご奉仕し、

合わせて「疫病退散祈願祭」を執り行いました。

と言いましても、私は宮司ではありませんので、

「やりましょう」と進言して、実現した感じです。

所属の神社庁へも、会議の際に人を介して提言したところ、

今のところは各社の判断でお願いします。との回答でした。

 

 

いずれにしましても、新型コロナウイルスの蔓延は未だ収束していません。

各自ご自分の身を守る行動をお取りください。

このニュースを受けて、色々な事を考えるのですが、

今日はその内の一つについて少し触れてみたいと思います。

 

私は神社の神主ですが、実はキリスト教「も」大好きです。

スマホには讃美歌が入っていて、良く聴きますし、

独学ですが『聖書』も読みます。

 

イエス様の残された言葉たちは、本当に深く・・・深く・・・・

私のような門外漢がちょこっと触れただけでは当然理解することなどできません。

でも・・・それでも、理由なく私はイエス・キリストに魅了されるのです。

 

私が一番始めに『聖書』を読んだのが、大学1年生の時だったと思います。

その時は、様々な宗教の知識を求めようという気持ちくらいで読んだと思います。

しかし、その時以来、私の心の中にとどまり、折に触れては思い出す、忘れられないイエス様の言葉があります。それが以下です。

 

「どくろ」と呼ばれる所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しくらさい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「ルカ23:33~34)

 

 

この言葉は、まさにご自分が十字架に磔になる直前に残された言葉です。

彼らとは、ユダヤ教の教師やローマ兵を指しています。

自分を殺そうとしている相手に対して、イエスは神の赦しを願っているのです。

その理由が「何をしているのか自分でわからない」からだと言います。

今から殺されるというその間際に、相手は「無知」だから何も悪くない。だから許して欲しいと祈るというのは、常人にできることではありません。神の子だからなせる業でしょう。

 

このイエスの言葉が私の頭から離れません。

そして、この「無知」というのが、本当の「憐み」の対象だと思うのです。

そして、私たちは皆「無知」なのです。

なんでも知っているようで、「無知」なのです。

「無知」であるが故に、平気で恐ろしいことをしでかしてしまいます。

だから、イエスのような高尚な人にとっては、この「無知」は「憐み」として映るのです。

 

しかし・・・

残念ながら、私のような未熟な人間にとって、この「無知」は時としてやり場のない「怒り」を生み出すものとして映ることがあります。

「この人は何をしているのか自分でわからないだけなのだ」

そう頭ではわかっていても、どうしてもそれを憐み、許そうと思うことが、難しいのです。

 

その一つが・・・

「マスクの高額転売」です。

 

どうか気づいて欲しい。

ご自身の行為がどれだけ愚劣なことかを。

そんな方法で、大切なご自身の価値を落とさないで欲しい。

もし今回の疫病を商機と捉えるなら、マスクを製造している会社の株式を買って、製造販売の促進を応援するという方法を選んで欲しかった。

 

繰り返しますが、私は残念ながら未熟な人間であり、どうしても「無知」なあなた方を許して欲しいと神に祈ることができないのです。

でも、イエス様なら、あなたの行為を憐み、赦しを乞うでしょう。

ですから、憐みを垂れられる前に、そして私のような未熟者の罵声を浴びる前に、そのようなことはお止め下さい。

 

商人は「客よし、店よし、世間よし」を魂に刻んだ人の事を言うのです。

 

 

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂きありがとうございます。