「自分を受け入れる」とは
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
昨日は雪で、今日も空気がひんやりしています。
体調には十分お気をつけください。
さて
「ありのままの自分を受け入れる」という言葉を耳にすることがあります。
私は長年「ありのままの自分」を否定して生きてきた人間でしたので、
「ありのままの自分を受け入れる」ことなく暮らしてきました。
今から思えば「ありのままの自分」は「ダメな人間」「人から注目されない人間」などと無意識で思い込んできたからでした。
しかし30代中盤頃に、それまでの人間関係に変化があり、それがきっけかになって、自分が自分を否定したによって、自分が理想とする自分を演じてきたことに気が付いたのです。(ややこしいですけど^^)
その時に、「あ!自分はこのままでいいんだ・・・・」
という普通の人なら感じることのない、妙な解放感に浸りました。
もっと言うと、この「気づき」によって、自分の全身をがんじがらめにしていた、鎖や綱が一気にほぐれたような感覚を今でも忘れることができません。
それは今その感覚を伝えるために、格好付けて言っているのではなく、本当にそうした感覚をこの体で体感したのです。
そして、その鎖や綱は自分自身がこの体に巻いたものだということも同時に「気づく」ことになったわけです。
しかし長年「ありのままの自分」を否定してきた人にとって、
この「ありのままの自分」=「本当の自分」とは一体どんな状態なのか。
という疑問を抱くのも無理はありません。
斯く言う私も「あ!自分はこのままでいいんだ・・・」と知り、心地よい感覚を得たのも束の間で、その後数年間「本当の自分」がわからず、いわゆる「自分探し」に大変な時間とお金と労力を費やすことになったわけです。
お陰様で、その後、大きな「気づき」を得て、今は昔のようにネガティブな過去や、認めがたい自分自身の要素や特性で苦しむことは減りました。
こんなことを言うと、偉そうに聞こえて嫌なのですが、
顕微鏡を使って、自分という人間の細かい所を見ていたのを、
遥か宇宙を飛び越えて【元型(アーキイプ)】の視点から物事を捉えるうようになったのです。
このブログの背景は、宇宙から地球を見た様子になっていますが(見切れていますけど)【元型(アーキイプ)】の視点というのは、もっともっと広い視野です。宇宙全体を視界に収めてしまいます。そしてその宇宙全体を眺めている【元型(アーキイプ)が、この地球に住む「私」という存在と繋がっているという事実を知った時・・・
顕微鏡を使ってみていた自分にまつわる様々な「受け入れ難い部分」が・・・・
「どうでもよくなってしまった」というわけなのです。
過去のネガティブ出来事やそれから生じるネガティブな感情を一つひとつ分析し、これと向き合い、丁寧に解決しようと、私もカウンセリングやヒーリング、瞑想や内観、果ては占いなど、それはそれは本当に色んなことを試しましたし、それらが無意味だったとは決して思いません。
しかし、私の苦しみを本当に解放へと導いたのは、繰り返しますが、
「どうでもよくなった」という感覚でした。
日々、自身の苦しみと向き合い、それに押しつぶされそうな人にとって、この「どうでもよくなった」という言葉は、乱暴な物言いに聞こえるかも知れませんが、そんなつもりはないのです。
例えば自分という一生付き合う人間の「嫌な部分」も、見えてはいるけど、気にならない。つまり「良いも悪いも判断しない」という術が身に着いたということになるのです。
ちょっと変な例えになって恐縮ですが・・・
あなたは今、石ころが転がる山の頂上に立っています。
遠くには光輝く海原、その手前には幾重にも緑の山々が重なり、青い空には一つの雲もなく、太陽は燦燦と照り、爽やかな風が木々の葉を揺らして、あなたの全身を包み込んでいます。
が・・・・・
あなたの足元には「犬のフン」がありました。
それに気づいたあなたは急に気分を害しました。
先ほどの雄大な景色の事はすっかり忘れ「犬のフン」の事で頭がいっぱいです。
帰り道でも、家に帰っても、あの山登りの事を思い出す度にあの「フン」の事ばかりを思い出します。
あの山の頂に立った時、あなたの頭は一体どんなことをしていたのでしょう。
実は3つの事をしています。
1 美しい雄大な景色を見て「良い」と判断しました。
2 足元の「犬のフン」を見て「悪い」と判断しました。
3 同じ足元にある「石ころ」を見て「どうでもよい」と判断しました。
私たちはいつも、この3つをジャッジしています。
私の先ほど述べた「どうでもよい」というのは、
「2を3にする」に近いと思います。
確かに足元にある「犬のフン」は不快です。そして確実に存在するものです。
しかし、それよりも視線を目の前へと戻し、その雄大な景色を眺めて、そこから得る心地よい感覚に浸った方が、よっぽど有意義であるはずです。
同じ足元にある「石ころ」を「どうでもよい」と判断できるのですから「犬のフン」だってきっとできるはずです。
しかしなぜ、片方は「悪い」、片方は「どうでもよい」と判断が分かれるのでしょうか・・・
それは「思い込み」です。
産まれたての赤ちゃんに「犬のフン」と「石ころ」差し出しても、何も判断しないはずです。同じように触るでしょう^^
「犬のフン」が「悪い」というのは、後からこの身に身に着けたものであり、私たちはそれを基準にその後も、物事を判断していきます。
「犬のフン」は「汚い」「臭い」「不潔」「不衛生」と言った情報が、頭の中にしっかりとインプットされることによって、それを「悪い」と判断します。
これは人間が生きる上でこの生命を維持するために、危険を回避する方法として備わっている大事な本能です。決して「悪い事」ではありません。
しかし、ある特定のものに対する「思い込み」という情報が強烈であればあるほど、その対象を強く「悪い」と判断することになります。
言ってしまえばこれは「当たり前」の事なのです。
四六時中手を洗っていなければ気が済まない人がいます。
これも過去に、外は汚い、何かに触れることは細菌が手に付く事と言った思い込みによって、手を洗うという行動へと移ります。
外出する際に、鍵をかけたか、いつも気になって仕方ない人がいます。
これも過去に、鍵を掛けない事によって重大な危険が発生した経験或いはそうした経験を人から聞いたりイメージしたことによって、そうした行動を取ってしまうのです。
しかしこれも全て、後から身に着けた「情報」・「思い込み」です。
ですから、その情報をいつ身に着けたのか。ということを振り返ることによって、それが「嫌いな理由」というのが明確になってきます。
しかしそれはその当時に得た情報であり、今起こっている事ではありません。
つまり、今必要なものではないのです。
もちろん、目の前に餓えた狼が牙を剥き出しにしてあなたにとびかかろうとしているのを見て、怖い!(つまり「悪い」)と判断するのは、その生命を維持保全するために必要な判断です。
しかし、足元にある「犬のフン」を過剰に「悪い」と判断する必要はありません。あなたの生命を脅かす脅威ではないことに気づくと思います。
つまり対象が「どうでもいい」へとシフトしていくわけです。
ということは。それまで「悪い」と判断してきた、ネガティブな過去の出来事も、
「過去」という過ぎ去った、最早どうすることもできないものを「どうでもいい」ものへとシフトさせることが可能です。
だってもう「ない」
だってもう「存在しない」ものなのですから。
それよりも、目の前の雄大な景色
即ち
「今生きている」という事実に目を向け、
それがどれだけ素晴らしい事(良い事)であるか。
に気づこうじゃありませんか。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。