「なんで神主になろうと思ったの??」
私は代々神社の神主をやっている、いわゆる「社家」と呼ばれる家に生まれたわけではありません。
普通のサラリーマン家庭に生まれた人間です。
中学生の時からこの仕事に就きたいと思っていました。
色々ありましたが、神職の資格が取れる大学へ進んで、その後神社へ奉職して、現在に至ります。
ですので、タイトルの通り、
「なんで神主になろうと思ったの??」
と聞かれることが多いです。
私は実は「はっきりした理由」をもっていませんでした。(正確に言えば忘れていました。)
この質問をされるたびに、とにかく神道に対する熱い情熱をもっていて、日本のためになるような仕事がしたくて・・・云々と
とってつけたようなようなこと言っていましたし、理由はわからないけど、私はすごい高い志を持った神職なんだ!と私自身思い込んでいました。
そんな感じで、ず~っと過ごしていたわけですが、
30歳を過ぎたあたりから、色々と身辺に変化があって、
自分の心を見つめる時間が大変多くなりました。
なぜこんなにトラブルが続くのだろう・・・
なぜこんなに体調が悪いのだろう・・・
なぜこんなに経済的に自立できないのだろう・・・
なぜこんなに物事がうまくいかないのだろう・・・
今まで考えもしなかったようなことを深々と考える時間が増えるにつれ、
とにかく原因の多くは、周りではなく「自分」にあることに気づいたのです。
そして、今の私があるのは、過去の私の経験の上に成り立っているのだ。
ということで、自らの「生育史」を詳細に思い起こし、書き出す作業を開始しました。
すると・・・・
すっかり忘れていたことを思い出しました。
それは、私はすごいイジメられていたのです。
もう少し正確に言うと、とにかく「弱かった」のです。
何より、人と争うことが本当に苦手でした。
闘えば必ず負けますし、男の子の乱暴な言動が怖くて仕方ありませんでした。
実はこの私の「弱さ」が、神主の仕事を選ぶ、最大の要因だったのです。
弱い私は、戦えば必ず負けることを知っています。
だから戦わないで勝つ方法を探し出しました。
それが「権威」を身に着けるということです。
最初から、この人間は特別な人間で、戦う相手ではない、戦ってはいけない相手だ、と周囲に思い込ませることで、争いを回避していたのです。
ですから、私は「自分は特別な存在なんだ」と自らにも言い聞かせ、周囲にもそのように振舞っていました。
これが私が、この世の中で、生き残る術だったということです。
そして選んだのが、「神職」という仕事でした。
世の中にはアンチ神道の人もいますが、基本的にこの仕事は多くの人から尊敬される仕事です。
特別扱いされ、上席に座らされ、立派な服を身に着け、何をやっているのかよくわからないけど、なんとなくありがたそうで、人格も素晴らしい人なんだろう・・・・
と思わることが多いのです。
もともと子供の頃からなぜか私は「日本的なモノ」を好む傾向にあったのですが(これについては後のブログで詳しく説明します)
それとリンクして、
弱い私は、神社の神主こそ、「戦わずして生きられる存在だ」と、鋭敏に察知したわけです。
これになりさえすれば、イジメられない、戦わないで済む、人から称賛される・・・・
そう信じた私は苦手な勉強をして、いくつもの試験に落ちながらも、なんとか神職資格が取れる大学へと入学し、資格を取得して、現在に至るのです。
しかし、先に記した通り、私はこの仕事を選んだ、「弱い自分を隠す」という本当の理由をすっかり忘れていたのです。
だから、
「なんで神主になろうと思ったの??」
という問いに、はっきりと答えることができず、すごい志が高いからなったのだ。と思うようになっていたのです。
しかし、己の心を顧みるようになり、その作業を繰り返すうちに、
私は「弱い自分を隠す」ために、そしてついでに「人から立派だと思われるため」に、この仕事を選んだのだ。
と気づいた時・・・・
ガラガラっと、私が今まで積み上げてきたものが、一気に崩れるような感覚が生じ、
そんなことでこの仕事にしがみついていたんだ・・・・私は誰よりも志の高い神職だと思っていたけど、全然そんなことないんだ・・・
という思いが頭の中を巡り、
しばらくは、自分が自分でないような感覚が続きました。
そして、悪い事に、今までできたことが、色々とできなくなってしまったのです。
それまでは、どんなに人がいようが、緊張するようなことがなかった私が、
数人の前に立つだけでも、ひどく緊張するようになり、挙句の果てには祝詞を読んでいても、緊張して声が出なくなってしまったのです。
こんな状態が一年以上続き、今はだいぶ落ち着いてきましたが、一時はとても大変でした。
それでも、未だにこの神主の仕事を続けているのは、
いいのか、悪いのか、この仕事以外、まったく他のことを知らないから、
仕事を変えようがない・・・というのもあるのかもしれませんが・・・・
やはり、「神道」が理由なく好きだからだとも思います。
苦しい時期もありましたし、今でも完全に開放されたとは言いづらいですが、
どんな時でも、神主という立場で、そして神道の考え方を忘れることなく、
自らの心の問題と向き合って、どうにかこうにかここまでこれたわけですから、
「神道による心の救済」の存在というものを信じたいと思います。
そして、できれば、それを多くの方々と共有できればと思っています。
以上、ざっと私がこの仕事に就いている経緯をお話いたしました。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
「私は今、有る、この命に感謝いたします。」