『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

崇めるな!拝むな!ひれ伏すな!

おはようございます。

 

 

昨日は突然風邪を引いてしまいました。

点滴までうつことになりましたが、お陰で一日で良くなりました。

 

 

 

さて、前回のブログ 悪魔の笛

の続きというか、補足みたいな感じになりますが、

 

「尊敬」と「崇拝」というのは、似ているのようで、違うわけです。

 

そして、極端なコトを言ってしまうと、この世の中に「尊敬」する人物はいても、「崇拝」する人物というのはいないのです。

 

「尊敬」というのは、「自分」や「相手」という存在をそのまま認めることです。

別に金持ちだとか、勉強ができるだとか、スポーツができるだとか、眉目秀麗だとか・・・

「〇〇だから尊敬する」というのではなく、

私たちは「存在しているだけで尊い」のです。

まずは、その事を念頭に置いておく必要があるでしょう。

 

 

 

「崇拝」というのは、読んで字のごとく、「崇める」「拝む」です。

ですから、時として(というか往々にして)

「自分は小さく、相手が大きい」

という構図が出現してしまいます。

 

神様にお仕えする立場のである私が、こんなことを言うと、だいぶおかしく思うかも知れませんが、

神も人も「まったく平等に尊い存在」です。

人間が小さく卑小なわけでも、神様が大きく優れているわけでもありません。

 

お釈迦様も、イエス様も、

ご自分を信者に拝ませるようなことをしたでしょうか?

まったくそんなことはなさっていません。

「拝むようになった」のは、後世の人々です。

この素晴らしい宗教を開いた教祖を「拝んだ」のです。

つまり、後世の人々は教祖よりも小さい存在だと「錯覚」してしまったのです。

しかし私としては、イエスも釈迦も、そして信者も、また宗教に属していない人であっても、皆等しく尊いと思っています。卑小な人間なんていないのです。

 

ですから、「宗教に似たビジネス」ではしばしば、教祖などが神格化されることがあり、信者がこれを崇拝するような事象が現れます。

私の考えがもし正しければ、こうした教祖は残念ですが、「ご自分を愛していない」ということになると思います。

自分を愛していないから、他者(信者)からの崇拝を集め、その心の隙間や傷を埋めようとしているのです。

日本の皆さんがオウム真理教事件以降、特に「宗教」=「怪しい金儲け」というイメージを持つようになってしまったように思いますが、繰り返しますが、これは「宗教に似たビジネス」であって、宗教ではありません。

私としては、「自分の尊さに気づくための方法」の一つとして「宗教」があると思っています。

 

いずれにしましても、「自分が小さい」などという幻想は捨てましょう。

神や仏に「すがったり」、「ひれ伏したり」する必要はまったくありません。

天皇陛下だって「崇拝」の対象ではありません。まったく私たちと同じ人間であり、日本という国体の一部としてその役割を果たしておられる方です。私とあなた(参照)

 

是非、ご自分の素晴らしさ、生きていることの尊さに気づいて欲しいと思います。

それではまた!