大事なことなので、何度でも^^
こんにちは。
ご訪問ありがとうございます。
私は海外に遊びに行くのが好きで、
だいたい2年に1回くらいのペースで海外旅行に行きます。
お決まりの観光地などを巡るわけですが、
必ずその国の宗教施設には、お邪魔するようにしています。
日本も海外も変わりませんが、
本当に信心深い人というのはいて、
一心に神や仏に向かって祈りを捧げている人を目にします。
本当に綺麗ごとでも、おべんちゃらでもなく、
私は、こういう「祈っている人」の姿こそ尊いと思うので、
その人に頭を垂れたくなるくらいです。
「見えないモノ」に対して、こうして祈りを捧げることができるのは、
まさに人間にしかできない業です。
フィリピンに行った時、ある教会を訪れました。
たくさんの人が熱心に祈りを捧げています。
すると、いかにも地元のやんちゃグループみたいな、
若い青年3人組がやってきて、
「ん?なんかいたずらでもするのかな??」
なんて思ったのですが・・・とんでもない。
3人ともイエス様の像にキスをして、
サッと十字を切ってその場を去っていきました。(ゴメンね青年たち)
その時、イエス様、そして青年たちが持つ、
純粋性に触れることで、私自身が深く癒されたというわけです。
つまり、3者が一体となった瞬間。ということです。
私は「それ」が尊いと思うのです。
確かにイエス様の教えは尊いです。
そして多くの人の救いとなっています。
しかし、私たち人間そのものが尊いのです。
決して、神や仏、教祖・開祖、導師、指導者、先生・・・
という何か肩書のようなものがついているから尊いのではなく、
私たちは存在しているだけで尊いのです。
それを忘れないようにするために、
神社には鏡が「こっちを向いて」置かれているというわけです。
しかし・・・
どうしても私たちは、自分が「卑小」な存在であると錯覚してしまう。
色々なネガティブな出来事によって、その思い込みを強くしていくのです。
そして、「この神・仏は偉いんです!」
なんて言われると、「ははぁ~」となってしまう。
そして、この偉いとされる神や仏にすがることによって「利益」が得られ、
その「卑小」な自分にも幸福がもたらされると教えられる。
違う!!!!!!!!!!!!
私たちは今こうしているだけで尊い存在です。
目の前の祈りを捧げている対象である神と寸分違わず、尊い存在なのです。
だから私は・・・
神でも仏でもなんでも、
「尊敬しても、崇拝するな!」
と言っているのです。
神主が「拝むな!」と言っているのです。
「おいおい」と思うかも知れませんが、これが真理です。
「拝む」というより「崇拝」です。
だって、神や仏は、そもそも「崇拝」されようと思って、
人々に教えを授けているわけではありません。
或いは仏教で言えば、自分が偉いと思われるために、
お坊さんは厳しい修行を積んでいるのではありません。
ただ人のため・・・
ただ人のために、己のできることを追求なさっているから、
神や仏、高僧と呼ばれるようになっているのです。
「崇拝」して欲しい。というのは、
ズバリ「悪魔の望み」なのです。
悪魔が一番欲しているのが、
まさに「崇拝」です。
なぜなら、悪魔は「自分が嫌い」だからです。
だから、他人に「拝んで」欲しいのです。
つまりこれでお分かりと思います。
神も仏も、悪魔も・・・
「私たちの中にいる」
ということです。
私たちの心の在り方が、
神にもなり、悪魔にもなるのです。
悪魔にこの身を窶さない方法はたった一つ・・・
何度も何度も申します。
「私たちは今こうしているだけで尊い存在」である。
ということを、知ることです。
それを知ることで、悪魔は勝手にしぼんでいきます。
そしてそんな尊い自分という存在、
そして周りの多くの存在に対し、
どう真摯に向き合い、愛情を傾けるかを考え始めます。
つまり
ただ人のため・・・
という生き方になるのです。
そして、もうお気づきのお通りこの「人」とは自分も含まれるということです。
即ち・・・
「他者」がいなくなるということです。
こうなると、いよいよ、神や仏の領域へと入っていきます。
「はい!私にはムリ・・・」
と思ったでしょう???(ニヤリ)
それが、自己を卑小に捉えている証拠です^^
できます。
誰もが神や仏の領域に住む人間になれます。
というより、既になっているのです。
そうさせないのは、何度も言うように、
自分を小さく捉える錯覚が原因なのです。
「私とは一体何者なのか?」
その問いに挑み続ける「等身大の自己」こそ、
まさに「神の似姿」なのです。
(↑ちょっと難しいなぁ~)
それでは今日はここまで。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
それではまた!