『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

本当の「師」について

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

土曜日いかがお過ごしでしょうか??

 

 

みなさんは「師」をお持ちですか?

「師」というのは、あらゆるジャンルにおいて設けることができるものです。

学問をしている人であれば、学問の師がいます。私も大学院時代が長かったので、

神道学・宗教学それぞれに「師」と言える人がいます。

 

或いは今で言えば「サロン」のようなビジネスで成功したような人が開く勉強会のようなものがあり、そこに集う人たちからすれば、当然その主催者が「師」になるわけです。

 

ただ時に「人生の師」みたいな表現をされるような「師」もあって、学問とかビジネスとかに限らず、その人の人生そのものを導いてくれるような存在も確かにあると思います。

とかく宗教やスピリチュアルな世界において、指導的な立場にあるような人というのが、こうした「人生の師」と呼ばれることもあったります。

それだけ宗教・スピリチュアル・精神というのは、人間そのものと関わってくるものだと言えるでしょう。

 

ただ・・・

ここからが私の意見になりますが、

確かに「師」というのは存在します。私にも信頼を置く「師」がいます。

しかし、こうした人を「仰ぐ」というのは、誤りだと思うのです。

いくら「師」であっても、やはり同じ人間です。

ましてや「俺はお前らの「師」なんだから俺を拝め」のような態度を示すような指導者にははっきり言って近寄らない方がいいでしょう。

 

その人が何を求めているかを知り、手本を見せ、何よりその人の中にある正解を引き出すことが「師」の役割だと私は思うのです。

解放カウンセラー仁さんはいつも「答えは必ずその人の中にある」と言います。

そして私も全く同じように感じます。

 

生きていると様々な「ノイズ」に悩まされます。

しかし心の仕組みを知り、「ノイズ」を取り去ることで、

自ずとその人にとって相応しい「選択」というのが見えてくるのです。

つまり、苦しみの本質を知り、或いは本当にやりたいことを見つけると言ったような。

 

誰かにあなたこうしなさい、とか、こうあるべき。などと言われなくても、

元々私たちの中には「正解」がちゃんとあり、

それを引き出すか引き出さないかの問題だと言う事です。

 

斯く言う私も、ほんの1年ちょっと前までは、

ここまで自分の言葉で、心・精神について語ることはできませんでした。

自分の抱える苦しみにただ耐える生活を過ごしてきただけです。

そしてそれが全て解決されたわけではありません。

 

しかし、明らかに今と昔では心持ちが違うのです。

それは偏に・・・・

 

「全ては一つだった、今はバラバラだが、やがて再び一つになる・・・」

 

という「気づき」が自分の中から沸き上がったからでした。

もちろんこれは、仁さんなどの発信者からの様々なメッセージが、私の中に積み重なったことが大きく影響しているのは間違いありません。

しかしそれは、恐縮な言い方になりますが、やはり「きっかけ」でしかなく、

最終的には、繰り返しますが、私自身の「気づき」としか言いようがないわけです。

 

即ち、「師」というのは、究極的には「私」ということになるのです。

つまり「答えは必ずその人の中にある」という導き通りだということです。

ですから、尚の事、「私」を尊重するべきですし、

こうした導きを与えてくれる人に対しては、先ずは感謝をすることが大事で、

先ほども申した通り、拝むような対象ではないということです。

 

今日はふとそんなことを考えてみました。

皆様はいかがお考えになりますでしょうか?

それでは、今日はここまで。

最後までお読み頂きありがとうございます。