『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

武士道の国

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

さて

地震を始めとした、様々な天災などにおいて、

日本人は秩序を守り、お互い助け合う民族だと言われています。

もちろん中にはとんでもないヤツもいるわけですが、

外国のように、暴動や略奪が起こることはありません。

また日本の大臣が「日本人は民度が高い」と言ったら、

お隣の国が怒るかなぁ~と思ったら

「そりゃ言えてる」と言わるくらいなもんです。

 

もちろん家庭や学校での教育というものあると思います。

例えば、日本人がキチンと列を作って並ぶのも、

日本人は幼稚園の頃から整列することが当たり前になっているからとも言われます。

或いは、学校の「掃除当番」も公共心を養っていると聞いたことがあります。

 

ただ・・・

こうした一つひとつに着目するのではなく、もう少し視点を高くして見てみると、

日本人が世界と比べ、なぜ全体として、マナーが良かったり、勤勉だったり、嘘を嫌うかと言うと・・・これ誰も言わないけど・・・

 

「武士道」ですよ。

 

日本はこの長い歴史の中で、多くの人から見て、

「その生き方が良い」

という見本のようなものが磨かれてきたわけです。

それがこの「武士道」です。

神道・仏教・儒教、主にこの三つが重なりあったものが「武士道」だと私は考えています。

 

以前アメリカのトランプ大統領が、日本の事を「武士の国」と言ったのをご存知ですか?

「ん~やはり外国の人の方が日本のことをよく知っているなぁ~」とその時感心したものです。

しかし、このニュースを取り上げていた番組コメンテーターが・・・

「武士は日本の人口の7%しかいなかったから、日本を武士の国というのはオカシイ」

と言っていて、この方を個人攻撃するつもりはありませんが、だいぶ悲しい気持ちになりました。

 

確かに「武士道」というのは、この国の武装集団である「武士」「さむらい」から起こったものです。

しかしこの「武士道」は決して、武士だけのものではありません。

日本全国津々浦々、お殿様から、お百姓さんに至るまで、

みんなが「その生き方が良い」とした生き方だったのです。

 

時期外れになってしまいますが、

忠臣蔵の事を書いた記事があります。↓

浮世の月に かかる雲なし - 『神主の遺言』

ここにも記している通り、

武士の生き様を、武士ではない人たちが称えているということは、

身分や職業に関係なく、共通して「武士道」という生き方が

互いに「良い」と思っているからこそというわけです。

つまり「自分も武士のように生きよう」と皆が思ったというわけです。

 

よく、時代劇でも、学校の授業でも、

一部の武士という特権を持った人たちが、贅沢な暮らしをして、

他の町人や農民はみんな貧乏で虐げられていた。

そんな言われ方をするし、私たちはそういうイメージを持っています。

しかしこれ全然違います。

 

武士は皆から尊敬されていたのです。

なぜか?

その答えの一つが、

 

武士は「責任を取る」からです。

「武士道」では自らの行いに対して「責任」が伴うことを叩きこまれます。

ですから、サムライは刀を「二本」腰に差しているのです。

長い刀で相手を斬った後は、短い刀で己の腹を切ったのです。

一つの命を奪ったこと、そしてこの揉め事に対して終止符を打つために、切腹をしたというわけです。

 

こうした武士という存在が、そのまま日本では「役人」だったのです。

必ず責任を取る武士が、自分たちの住む地域のトップとして、政(まつりごと)に関わっていたわけですから、皆安心して暮らすことができたというわけです。

当たり前と言えば当たり前ですよね。

 

ですから、繰り返しますが、別に武士じゃなくたって、皆武士のように生きよう。と思ったのです。だからこの国では「武士道」の精神が、普遍的な価値として育ち、それが今でも息づいているというわけです。

 

ただ、武士なんて、遠い昔の古臭いものだ。という刷り込みや、

精神を重んじるべき、なんて言い出すと、すぐに「軍靴の音」が聞こえてきちゃう人がいるので、みんな言わなくなってしまったのです。

 

しかしとはいえ、日本人に限りませんが、民族の「真芯」を貫く精神というものは、

100年や200年で簡単に変化するものではありません。

だから、こうして日本人は全体として今でも、世界が驚く程の高い民度と、どんな時でも秩序よい行動を取る事ができるのです。

それこそまさに「武士道」という精神が、先祖代々、脈々と伝承されているからに他なりません。

 

恐れながらご紹介いたしますが、

平成21年4月に、当時の天皇陛下皇后陛下上皇陛下、上皇后陛下)がご結婚満50年を迎えられた際の記者会見で、皇后陛下がこんな事をおっしゃいました。

 

「WBCで活躍した日本の選手たちは,よろいも着ず,切腹したり,ゴザルとか言ってはおられなかったけれど,どの選手も,やはりどこか「さむらい」的で,美しい強さをもって戦っておりました。」

 

WBCというのは、野球の世界大会の事ですね。

ここに出場していた選手たちの活躍をご覧になって、

その姿に「どこかさむらい的」とお感じになられたのです。

日本人は野球に限らず、サッカーの世界大会など時、

すぐに「サムライなんとか」と言い出しますよね。

スポーツであっても「闘いの場」に向かう者はこの国では「さむらい」をイメージするわけです。

そして、そのさむらいたちは、当然「武士道」に則ったフェアなプレーを心掛ける。

だから皆安心してその試合を見て、応援することができるわけです。

さらに言えば、サッカーの試合が終わった後に日本人サポーターは観客席のゴミ拾いまでして帰ります。

偽善だとか、パフォーマンスだとかごちゃごちゃ言う人は置いておいて、

 

これも自分の始末は自分でつける。

またこの場所を提供してくれたことへの感謝の現れであり、

まさに「さむらい的」だと思います。

 

選手もサポーターも共に立場は違えども、共に「武士道」の人。なのです。

ですから、この構図は200年前と何も変わっていないというわけです。

 

今日は日本人の持つ、大切な精神について語りました。

私も、

あなたも、武士なんですよ。というお話です。(男女なんて関係ありません)

 

それでは今日はここまで。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。