『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

我が家に神様がやってきた!

こんにちは。

ご訪問ありがとうございます。

 

 

YORISOIというSNSがあって、この運営者が「解放カウンセラー仁」という人です。

私もたくさんの発信者の影響を受け、今があるのですが、

本当に多くの事をこの仁さんから学びましたし、これからも学び続けていきたいです。

そしてこの仁さんとの出会いは、仁さんに集う人々との出会いでもありました。

今はコロナで開催できないのですが、一昨年から「解放心理学勉強会」という講座を仁さんが開催していて、そこにたくさんの人々が集い、心の仕組みを学んでいます。

 

日本のあちこちから老若男女が出席し、

一回しか会ったことがない人、少しだけしか話していない人、全く話ができなかった人など、色々なのですが、

このYORISOIやツイッターなどで継続して交流を重ねることによって、

私個人として、彼らを「仲間」だと思っています。

これまでの人生で、私が誰かの事を「仲間」と口にすることも、そもそも思うこともなかったので、それだけ私にとって大事な人たちなのです。

たくさん同じ時間を過ごしたわけでも、お互いを深く知っているわけでもありませんが、絶妙なバランスで繋がっているというようなイメージです。

 

で、前置きが長くなりましたが・・・

その仲間の一人から以前連絡をもらいました。

小さなお子様をお持ちの方なのですが、

お住まいの地域では、神様をお祀りした神棚を、順番に回していく「お伊勢講」という風習があるそうです。

こうした風習は実は結構あって、お稲荷さんだったり、お地蔵さんだったりする事例があります。

昔の人は私たちのように気軽に旅行に行けなかったので、例えば村の皆でお金を出し合って、代表を数名選び、有名な寺社へ赴いて、その際にお札や御分霊を分けてもらって村へ戻り、それを各戸で順番に祭祀することで、お恵みをもらっていたわけです。

私の地元では「庚申講」という風習がかつて盛んで、神棚を回すのではなく、持ち回りの家に皆が集まってお祈りをし、後は夜通しお酒を飲んで寝ないようにするという「信仰+娯楽」みたいなものもありました。

 

話を戻すと、

彼女が私に連絡をくれたのは、この「お伊勢講」の神棚が初めて彼女の家にやってきた時でした。

結構大きな神棚に圧倒され、それに加えて「一体どうすればいいのだろう・・・」という不安を感じられたようです。

いきなり我が家に大きな神棚がやってきたら誰しもそう思うと思います。

ですので、神主の意見を聞いてみようと私に連絡を下さったという経緯です。

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「お伊勢講」の神棚(ご質問を頂いた方が撮影されました)

ユーチューブでも「神棚の祀り方」みたいな動画がアップされています。

また神社庁などでも、同じような説明を記した配布物をよく目にします。

私がこれらと同じことをアドバイスしたと思いますか?

例えば、

神棚は東向きや南向きにして、家で最も清浄な場所に置いて、

神棚を置く台は、縦1尺2寸、横3尺6寸5分が望ましくて、

毎日米・酒・塩・水をお供えして、お供えの位置や順番もキチンと守り、

両脇には榊を供えて、毎日水を取り替え、朝な夕なに拝礼をして下さい云々・・・みたいな。

 

これらが悪いとは言いません、

しかしこれらは全て「カタチ」です。「表現」とも言えます。

お気づきの通り、「カタチ」の奥には「心」があります。それが大事なのです。

私はその部分をお伝えしました。

 

私が折りに触れて申していることの一つに、日本の神様は祟ります。というお話をしています。日本の神様は祟るのです。

しかし例えば作法を間違えたとか、ちょっとお供えをさぼったとか、そんなことでは祟りません。

神様が祟る一番の理由・・・

 

それは「ほったらかす事」です。

別の言い方をすれば「存在を無視する事」です。

 

冒頭にご紹介した仁さんから心の仕組みを勉強をすると、

必ず「無価値感」という言葉を教えてもらいます。

その名の通り、「自分には価値がない」という思い込みです。

この「無価値感」こそ、人間の心を深く傷付け、測り知れない程の苦しみ、悲しみを誘発させるネガティブな感情です。そして命に係わるアクションと最も繋がりやすい感情でもあります。

(「命」という存在するだけで完全完璧なものの素晴らしさを理解する上で、その真反対の無価値観という感情を感じているのです。)

 

「無価値感」を感じる方法は多種多様で、例えば親から「あなたはホントにバカだね!」と罵られて感じることもありますし、誰かと自分を比較して自分は劣っていると感じ、それが無価値感へと繋がる場合もあります。とにかく多種多様です。

しかしその中でも最も無価値を感じる手っ取り早い?方法があります。

それが・・・

「ほったらかす事」(「存在を無視する事」)です。

 

人間も神様も同じです。

とにかく「ほったらかす事」が何よりも心を荒ばせるのです。

ですから、「カタチ」なんてどうでもいいとは言いませんが、

それより以前に「私はあなたを認識していますよ」「私はあなたを尊重していいますよ」という心が大事なのです。

この心さえあれば、気が付いた時に自然とお供え物をするでしょうし、

何か特別な事があれば、奉告しようと神前に立ち手を合わせるでしょう。

 

加えてお子さんがいる家庭ですので、この神棚がやってきたことは、とてもよい学習の機会になります。

ですので、例えばお供えしたお米などを下げて、それを皆で食べれば神様のお力を頂戴することになりますともお伝えしました。

また、何をお供えしたっていいわけですから、お子さんが書いた絵などをお供えすることもお勧めしました。

お子さんたちはさっそく折り紙を折って、神棚にお供えしてくれたそうです^^

 

この「お伊勢講」の神様も、彼女の家を巡り、このご家族と出会えたことで、

益々ご自身の存在の素晴らしさにお気づきになり、そのお力をどんどん上げて、

彼女とその家族、そしてこの地域の人々をお守り下さることでしょう。

 

つまり、

お互いが、お互いの存在を必要としているということです。

一方が尊く、一方が卑しい、一方が大きく、一方が小さいのではありません。

等しく尊いということです。

まさに「無価値」とは真逆の世界ですね。

 

 

こうした伝統が続いていくことを願っています。

本記事を投稿するにあたり、彼女の許しを得ました。改めて御礼を申し上げます。

 

それでは今日はここまで、最後までお読み頂きありがとうございます。