【人間1回目】
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
三連休も終わって、神社は静けさを取り戻しつつあります。
今年のお正月の参拝者は例年の半分とまでは言いませんが、大分減って、
お正月に頒布する干支の絵馬がくっついている破魔矢が結構な数残っています。毎年三連休までにはすっかりなくなるのですが・・・(どうするんでしょう・・・)
ようやくいつも私が座っている授与所の席も、お正月仕様から、普通通りに戻ったので、ここでパソコンを開いてブログを書く事ができます。
それにしてもこの冬は寒い日が続きます。
大雪の被害に苦しんでいる方々にお見舞いを申し上げます。
「丑年」のこの「丑」という文字は人間の握りこぶしを表していて、
寒くて手をギュッと握る様子を表現しているとかいないとか・・・
早く春にならないかなぁ~と思うばかりです。
ということで今日のお話も、また取り留めのない感じになりそうですが、お付き合いください。
今は引退されているのですが、数年くらい前までテレビを点ければ、その姿を見ない日はない。というくらい活躍されていたある芸能人の方が・・・・
「例えば、ルールやマナーが守れない人、言葉遣いや態度が明らかに常識から逸脱し、他人に迷惑かけるような人など、どう考えてこいつは悪い意味でオカシイという人って、【人間1回目】なんや。」
というような趣旨の事をおっしゃっていました。
つまり、今までずっと虫や動物としての生まれ変わりを繰り返していた「魂」のようなものが、よっぽど何か良いことをして、今回初めて人間として生まれることができた。というようなことがおっしゃりたいわけです。
ですから、前世が人間ではなかったので、人間としての「魂の経験」みたいなものが備わっていないから、他者と比べてルールやモラル、常識に欠けるということなのです。
それで・・・
これが便利、便利^^
ちょっとでも気に入らない人がいれば、「こいつは人間1回目~」と心の中で決めつけると、妙に納得がいくし、「こいつはせいぜい3回だな」とか、自分の事は棚に上げて、周囲にこの「ラベル」を貼っていき、次々「般化」させて納得させていくわけです。
この理論については色々なことが言えると思いますが、少し絞って考えれば、
もうお気づきの通り、これって「差別」の温床に繋がると思います。
例えばある集団とある集団が戦って、一方が破れた場合、
「こいつらは人間1回目だから、せいぜい奴隷となって俺らの世話をして徳を積んで、2回目はもう少しマシな人間に生まれ変わればいいだろう。」
とか
「この仕事をしている人たちは、或いはこの地域に住んでいる人たちは、貧しく頭の悪い人ばかりなのは、人間1回目だからだ。」
みたいに、なんの根拠もなく人や集団を一まとめにして「人間1回目」として納得するようになっていくと思います。
またここに「宗教」が絡むと、差別している方だけでなく、差別されている方も「自分は人間1回目だから、この理不尽や苦しみを受けなければならない、それに耐えてこそ、次は今より上に行ける」
みたいになっていくわけです。
個人レベルでこれをやっている分には、人間の一人ひとりが持つ個性を見出すことができず、決めつけで生きる人生を歩むだけで済むのかも知れませんが、
先に述べた通り、集団や国としてやったり、そこに宗教が入り込むことによって、この人間1回目の理論は、非常に危ないというか、多くの問題のタネになるように思います。
それに、話の流れとしてこの用語を使用しますが、
「魂の経験」、つまり生まれながらにして、人間には経験に差がある。という考えは、そのこと自体が「差別」と直結するわけで、
生まれた家や親、財産や家の名誉と言った社会的な格差とは別次元の・・・・
非常に「陰湿な格差」のようなものを感じざるを得ないのです。
ただ・・・
薬も使いようで毒になるし、毒も使いようで薬にもなるもので、
決して多様せず、伝家の宝刀的に自らの心にこの理論を秘めておき、
もちろん他人に勧めたり、同意を促したりせず、
自分の中で、どうしても、どうしても、どうしても納得がいかない場面に遭遇した時に、
「あぁ【人間1回目】って理論がそういえばあったなァ~」
くらいな感じで使う分には、精神の健康を保つ上では、悪くない事だと私は思っています。
みなさんはいかがお考えでしょうか?
それでは、最後までお読み頂き、ありがとうございます。