『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「性」と向き合う 第1章 長い前置き

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

やはり年末でバタバタしていて、なかなかブログもユーチューブも更新できません。

先日はジムでトレーニング中に、思いっきり「腰」を痛めてしまいました。

皆さんもお気をつけください。

また昨日12月21日は冬至でした。今日から少しづつ昼間の時間が伸びて、生命の活動も活発になっていきます。

 

さて、このブログでもユーチューブでも、時折「性」のお話をすることがあります。

もちろん私自身、人間の心というものに向き合うようになってから、この分野について深く考えるようになったのですが、

実を言うと、私はもっと前からこの「性」について強い関心を抱いていました。

大学を卒業して、大学院を受験する際には必ず「研究テーマ」を決めないといけません。その際、私は「神道と性」について研究しようしたのです。

 

ただその時の指導教授に、「私(教授の事)は好きなテーマだけど、他の神道の人はあまりこういう話は「好きじゃない」から止めた方がいいよ。」

と言われて、あっさり別の分野を研究することにしたのです。

指導教授のアドバイスを聴き入れずに、そのままこのテーマに沿って研究をして、当時の私がどれだけの成果を挙げられたかは疑問ですが、

やはり最初のインスピレーションというのは大事なもので、いつまで経ってもこのテーマは私の頭の中から離れることはありませんでした。

 

そして、大学院前期、後期と進んで、ある日突然「もういいや」とそれまでの研究を放り投げ、名実共に?ただの神主になった時、やはりこの「性」についてアレコレを考え始めたというわけです。

ですので、私にとって結構?相当?思い入れの強いテーマです。

 

そして、さらに前置きが続くのですが、

学生(と言っても将来神職になる学生)というのは、在学中に幾つかの研修を受ける必要があります。

また神職になった後も、色んな研修があるのですが、一日や半日の研修もありますが、中には数日泊まるような研修もあります。

当然、こうした泊まりの研修では、学生の時も神職になってからも、集団生活になるのですが、ちょっとした休憩時間や就寝前の自由な時間になると、なんとなくできた仲間同士で、他愛もない話をし始めるものなのです。

特に就寝前の自由時間になると、

何故か(恐らくそれぞれの「生活」が垣間見えるからだと思いますが)

いわゆる「ゲイ(ホモ)ネタ」(←曖昧な表現ですが)のような話が飛び出ることがあるのです。

「お前ゲイだろ~」とか「あいつはその気がある」とか片手を反らせて「コレ」とか。

そしてお互いキャッキャしながら、否定し合い、茶化し合ってケラケラ笑うってな感じです。

 

恐らくですが、このような光景は別に神職の集まりだろうが、なんであろうが、男性が集団で生活していると大なり小なり起こると思います。やはり先ほども指摘した通り、それぞれの「生活」が垣間見えるからだと思います。(女性でもあるのかなぁ?)

 

まぁ何しろ、いわゆる世の「多数派」というのは、

平均からはみ出た部分が面白くて仕方なく、また自分がそこから逸脱するのが怖くて仕方がない人たちなので、こうなるのもムリないんですが・・・・

 

ただ・・・

私はそれを横目で見ながら、

「世界広しと言えども、宗教を語る「神道」に身を置く人間、それも神職というこの世界で専門的な立場になるような人間たちが集まって、こんなセンシティブな「性」の問題を、ただの笑いのネタにしてるのなんて、この空間ぐらいだろうな。」

と感じて、スッとそういう場面からいなくなるようにしていました。

 

男性同士で「性」を揶揄するような会話には、必ず「自分はゲイじゃない」という主張が伴います。何か少しでも同性愛的なことと関係していると他人に思われるのは色々と困る。という心の働きがあるのだと思いますし、確かにそれも良くわかります。

ですから、「性」について、気軽に笑いのネタなどにする一方で、

真剣に向き合い、己の主張を述べたりすることは、そうした否定する心が働いて、消極的になるというわけです。

 

一般の方(ここでは神職以外という意味)であっても、本当はこうした在り方には問題があるとは思いますが、私が言っても仕方ないので言いません。

ただ少なくとも、「神道は宗教とである」と言うのであれば、さすがにこうした姿勢というのは、改めた方がいいのではないか?と思うわけです。(まぁ言っても仕方ないと思いますけど)

先ほど太文字で書いた「好きじゃない」という部分はここと繋がっていて、要はそんな研究をすると、変な人間だと思われちゃうよ。ということなんだと思います。

 

ただ変だろうが、何であろうが、私は興味があるし、

それに、宗教というのは、私個人的な意見を述べれば、トコトン「私」という存在に向き合うことだと思っているので、そうなるとこの「性」というお話は絶対に避けては通れない大事なテーマだと思います。

ですから、なるべく頭の片隅に置きながらいつも生活をし、日々の神社での奉仕をしようと思っています。

 

 

もう前置きだけで、こんな長くなってしまったので、

本題は次へ譲ろうと思いますが、

この同性愛と、非常に深く関係するのが、「自己愛」だと思います。

自己愛とは「自分を認める」ということです。

つまり「私とはこういう人間である」と本人の本人への認識の事です。

日本人は「愛」という言葉や概念を、なかなか上手に捉えることができない民族だと私は思っており、私自身もそうなのですが、「愛」とは「認める事」と言葉を入れ替えると、わかり易くなると思います。

次回はもう少しこのことについて考えてみたいと思います。

 

お読み頂き、ありがとうございます。