なぜ無価値を感じるのか
こんにちは。
ご訪問ありがとうございます。
今日の記事はちょっと長いです・・・・。
でも結構大事なことを記します。
私の話をしてみたり、神社界の話をしてみたり、最終的に元型(アーキタイプ)の話をしてみたりします。
さて
それぞれの人生において、
共通、一貫した「テーマ」のようなものを持っている人がいると思います。
例えば
「お金がない(豊かではない)」という苦しみを人生の内で長く感じる人
「愛を知らない」という苦しみを人生の内で長く感じる人
「健康に恵まれない」という苦しみを人生の内で長く感じる人
「孤独で寂しい」という苦しみを人生の内で長く感じる人
などなど
こうした、お金がない、愛を知らない、健康に恵まれない、孤独である。と言った苦しみは誰しもそれぞれの人生において大なり小なり感じるものですが、
これがすごく長く続いていたり、或いは人生の大半がこうした状態である人もいます。
やはりこうした人にとっては、この苦しみはある種「テーマ」であると考えた方がいいと思います。
私事で恐縮ですが、
今から思えば、この「いずみしんじ」として分離している人間の人生を、前半と後半でわけると、それぞれ間違いなく「テーマ」を負って生きてきたように思います。
やはり前半は「愛の渇望」だと思います。
親を始めとした、周囲からとにかく評価されたい、認めてもらいたい。という苦しみが私を支配していたと思います。(もちろん当時は自覚はありません。今思い返すと己の行動原理の全てがこれだったということです)
ただ30代中盤になって、交友関係に変化があり、それによって私の心も大きく変化したことにより、「自分はダメな人間である」とガムテープに書いて、自らに張り付けたことによる「無価値」な思い込みが、こうした悲劇を生んだということを知ったわけです。(この辺りは解放カウンセラー仁さんの動画をご参考にして下さい)
そしてさらに、自らを見つめるという作業を繰り返すことによって、私たち人間とその命の尊さというものをはっきりと自覚するようになったのです。
つまり「愛を渇望」し続けた結果、最終的に私は自分を含めた人間の尊さを知る事となったわけです。そして、これが今の私の宗教的・信仰的土台にとどまらず、あらゆる物事を考える上での基本となっているわけです。
では、後半(と言っても前半と時間的に結構重複していますが)の「テーマ」はやはり「己の力不足と理不尽への堪忍」と言った感じになると思います。「切歯扼腕」という言葉がありますが、具体的なことを言って「しまえば」、私はこの神社・神道という世界に入って以来、日々「切歯扼腕」していると思います。
この事は、神社界の誰一人として口にすることはありませんが、実際多くの神職らが感じている事は、「神社界は身分制度のまま」ということです。
いやむしろ、これは敗戦以降より強化されていったと言っても過言ではないのです。つまりこれまで慣習的に神社の祭祀を家職としてきた社家と呼ばれる人たちが中心となって、戦後の神社界を作ってきたわけですから、なるべく自分たちの都合のよい環境にしようとするのは当然のことだからです。(これは神社に限ったことではありません。どの組織でもそうなのです)
敗戦以前、例えば学校の先生は「師範学校」を卒業する必要がありました。そして実はこの「師範学校」を卒業した者は、「祭式」(神社での行事作法)を学ぶと、神職の資格が与えられたのです。これは神社というものが、公的なものであるという意識が今よりも強かったという表れなのです。(また逆にそれだけ教師というのは神聖な立場だったということでもあるのです)
しかし今はこうした制度はありません。ですから私のように、よっぽど神社・神道に対して「意識の目」が向いているような人間でない限り、社家以外の人間が神職の資格を取得しようなどとは思いません。戦後の神社界というのは、実は敗戦以前よりも閉鎖された空間となってしまったというわけです。
物事には何にでも良い面と悪い面があります。
つまり閉鎖されていることによっての良い面もキチンと見出すことができるのです。ようはこうした閉鎖空間で、外部からの人の出入りが少ないということは、組織も身内によって運営されるわけですから、その組織を利用し別の目的を持ったものにすり替えてしまおうとする勢力の手が入りにくいということになるのです。
例えば仏教界で言うと「阿弥陀仏の本願は憲法九条の護持」と言ったように、信仰と政治的イデオロギーがごっちゃになってしまっているものが散見されます。
本当に我が国の憲法九条を守る事が阿弥陀仏様の願いであるのか、私は全く分かりませんし、どの仏典にそうした根拠があるのかわかりません。
ただ言えることは、間違いなくこうした政治的イデオロギーを持った人たちが、仏教界に入り込んで一定の発言力を行使しているということなのです。
これは戦中の仏教界が「敵の弾丸に当たって戦死した者は、皆極楽浄土へ行ける」と兵士に説いて回っていたのと、笑えないくらい似ているということを指摘しておきます。
仏教における出家というのは「個人」であり、希望者がするものです。
ですから、仏教界は閉鎖された空間ではないのです。神道界とは全然違います。
従って、先にも述べた通り「その組織を利用し別の目的を持ったものにすり替えてしまおうとする勢力」にとって、容易に入り込みやすい環境が整っているというわけです。
その点、神道界というのは、非常に閉鎖された空間ですので、こうした勢力が入り込む余地が少ないということになるのです。ですから神社界は全体を通じて神職たちの宗教観や国家観といったものが、概ね一緒という良い面があるというわけです。
しかし当然悪い面も存在します。
それが有能な人材の登用がなされないという点です。
こういう書き方をすると、「有能な私が活躍できない環境にただ文句を言っているだけなんだろっ」という声が聞こえてきそうです。
少し前の私でしたら、「私を除いた有能な人材」と言っていたと思いますが、世界でたった一人の私という人間を、私自身が貶める必要は全くないということに気が付きましたので、私は少なくとも無能ではありませんし、神道を心から愛している一人の神職です。と申しておきます。
こうした人間が、奉仕する神社や宮司によっても違いがあるでしょうが、単なる「手伝い」としての地位に甘んじ、それぞれが持っている素晴らしい力を発揮できない状態となっているわけです。
こうした状況が、私の人生の後半の「テーマ」である「己の力不足と理不尽への堪忍」という苦しみの根源となっており、それが現在進行形として重くのしかかっているというわけです。
しかしここからが大切なのですが、
こうした「テーマ」のほとんどが「逆体験」だということなのです。
私たちは、それぞれの人生で様々な体験をしているわけですが、
中でもネガティブな体験によって感じる感情というのは、重要な意味を持っています。
私たちは今こうして別の人間として分離していますが、
この肉体が滅びれば、再び元型(アーキタイプ)へと統合されていきます。
元型は「貧しい」「悲しい」「寂しい」「孤独」と言ったネガティブな感情を持っていません。ですからこうしたネガティブな感情を敢えて、分離している最中に味わうのです。そして肉体が滅びて統合された時に、このネガティブな感情を感じたことによって、元型は自らが「豊か」「喜び」「分かち合い」「ふれあい」の存在であることをより実感するのです。
上記の事は、少し理解をするのが難しいので、何回か読んで頂きたい部分なのですが、もう少し簡単な言い方をすると、
愛に溢れた元型が、その愛をもっと理解するには、その反対である憎しみの経験をする必要があるのです。
豊かさに溢れた元型が、その豊かさをもっと理解するには、その反対である貧しさを経験する必要があるのです。
価値そのものである元型が、自分の価値の素晴らしさを理解するには、その反対である無価値という経験をする必要があるのです。(←これが一番多いと思います)
このように私たち分離した個別の人間は「その反対である〇〇」を経験するために、今こうして生きていると言ってもいいわけです。
そしてこの「その反対である〇〇」というのが、それぞれの「テーマ」なのです。
つまり、私の現在のテーマである「己の力不足と理不尽への堪忍」というのは、もう少し簡単な言い方をすると、「自他へのくやしさ」であり、その延長にはやはり「無価値」という感情を感じているのだと思います。
つまり、実をいうと、前半と後半は形は違えど、実はその根底に流れるものは共通していて、
周囲の愛を得られないことによって、「自分はダメな人間である」という思い込みによって「無価値」を感じ、
現在の神社界という環境に身を置くことによって、「自分には力がなく、他人からも重んじられない」という苦しみに悶えることによって「無価値」を感じている。
ということになると思うのです。
(ここまで自分の事を冷静に分析するのもなんだか妙な気になりますが・・・)
つまりこれは、あくまでも私の経験に基づいての私見ではありますが、
元型というのは確かに、豊かさ、慈しみ、愛、ぬくもり、分かち合い・・・と言ったポジティブな特性を完全な状態で兼ね備えた存在ではありますが、これは一つひとつの特性であって、全体を表すものではないと思います。
ではこの元型(アーキタイプ)を一言で表す言葉を探すとすれば、それは何度も申している通り「価値そのもの」だと思うのです。
豊かさの「反対である貧しさ」というのは、確かにネガティブな経験ではありますが、やはりこれを掘り下げると、貧しさを感じることによって、自分という価値を疑い、自己卑下が始まり、「無価値」を感じるでしょう。
ぬくもりの「反対である孤独」というのは、確かにネガティブな経験ではありますが、やはりこれを掘り下げれる、孤独を感じることによって、自分という価値を疑い、自己卑下が始まり、「無価値」を感じると思うのです。
全部が全部ではありませんが、私たちが感じる多くのネガティブは、突き詰めていくとその多くが「無価値」へと突き当たるように思えます。つまり「価値そのものの反対」というわけです。そしてこの「無価値感」こそ、それぞれの人生に極めて大きな負の影響をもたらすものだと言われています。
あの手この手で、私たちはこの分離している最中に「無価値」を感じることによって、この肉体が滅び、再び元型(アーキタイプ)へと統合された時、より自分(元型)という存在の価値の素晴らしさを体感し、味わおうとしているのだと思います。
それだけ、元型(アーキタイプ)にとって、「自分が存在している事」というのが、何よりもの喜びだということだと思います。
(この辺でそろそろ締めます)
とは言え、こうしたネガティブな「テーマ」から卒業し、ポジティブな人生を送りたいと誰しも思うものです。その答えはちゃんとあると思います。
それが既に記している通り「自分が存在している事」を喜ぶ。ということになると思うのです。
確かに私たちは体を有しているために滅びが来ます。「有」と「無」はセットになっているということです。しかし確かに「寿命」という制限はあるけれども、それでも厳然として今「自分が存在している事」という価値を喜び、感謝し、祝うべきなのです。
つまり「分離した個でありながら、元型(アーキタイプ)として生きる)」ようになれれば、ネガティブな経験を通じて、自らの価値を知るという逆体験をわざわざする必要がなくなり、ダイレクトに自らの持っているポジティブな特性を活かして、喜びと感謝に溢れた暮らしができると思うのです。
私も現在のテーマを卒業し、次の段階へと足を踏み入れたいと思います。
その為にも、やはり「自分が存在している事」に対してもっともっと感謝するべきなんだと思います。
皆様は日頃どんなネガティブを感じていますか?
そのネガティブには必ず意味がありますので、どうぞじっくりとその時感じる感情を観察してみて下さい。
ほんと、長々と失礼しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。