『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「使い込んだ目」

みなさん、こんにちは。

 

前回の記事

「私が退職した本当の理由」 - 『神主の遺言』

を書いて、やっぱりブログもいいもんだなァ~と思いました。

ユーチューブでは世間様に対して、ささやかではありますが訴えたいことを述べることが多いですが、

このブログでは己の心情をそのまま吐露するという、少し趣を変えた使い方をしてみようかなァ~と思うようになりました。(気まぐれの更新になりますが・・・)

 

ただ、心情の吐露と言っても、あまりに愚痴っぽなっては、せっかくお読みくださる方を不快な気持ちにさせてしまうだろうし、

(以下がすごく重要なのですが)

私は心のどこかで、己の過去の体験やそれに紐づく心の動きを人に披露することで、他人からの同情をかいたいと思っているのです。そのつもりがなくてもです。

これは私にとっても、お読みくださる方にとっても、あまり良いことではありません。

しかし時にそうした【弱い自分】を抱きしめることも必要ですので、ご容赦頂きたく思います。

とは言え、私のことをお示しすることで、読者の皆さまの人生のどこかと相通じ、何かのお役に立てばいいなと思っているのも本心です。

よろしければ、ご参考に、という感じです。

 

 

 

・・・さて、ここからが本題です。

もう何年も前の話ですが、とある女性と出会いました。

どこであったとも、どういう集まりだったとか、一切ここでは申し上げられません。

ただとある女性と出会ったのです。

しかも私はお話もしませんでした、ただ私を含む集団の中にいらして、ご自身に関するお話を確か5分程度なさっておられました。

年齢もわかりませんが、25・26歳に見えました。

体格は小柄で、みどりの黒髪、少し日に焼けたお顔だったように記憶しています。

 

目が・・・

 

目が印象的でした。

 

変な表現になってしまいますが、遠くから彼女の目を覗いた時・・・

 

「使い込んだ目」

 

そんな言葉が瞬時に浮かびました。

お話を伺っていると、もう何年も(実際には数字でおっしゃっていましたが)同じ男性に思いを寄せ続けて「いた」そうです。

複数回、告白したそうですが、恋は実らず片思いのままとのことでした。

そしてとうとうその恋を諦め、新たな自分をスタートさせようと決意したとのことでした。

 

・・・・「本当にそうなのかな?」

 

と思いました。

「執着」による苦しみをこれ以上感じるのが辛くて辛くて仕方がないから、

何か別のことに打ち込む新たな自分という都合のいい幻想を作り出し、

その手放すことができない執着から、せめて「視線」だけは逸らそうとしているように思えたのです。

 

彼女の心に、

押しても、引いても、何をしても、ただ黙ったままのその男性が棲みついているんだろうな・・・そう思いました。

 

彼女の人生の歩みの中、その男性にまつわる様々な出来事を、

その都度、色んな目で見つめて来たのだと思います。

欲する目、うらやむ目、悲しむ目、怒る目、悔やむ目・・・のように。

様々な感情とともに目まぐるしく変わるその目が、

「使い込んだ目」を形成したように感じました。

 

私の勝手な思い込みならそれに越したことはありません。

彼女が本当に、そのかなわぬ恋をふっきり、その経験を活かして新たな人生を軽やかに歩んでくれていれば、それが一番いいし、もちろんそう願っています。

 

彼女とは話してもいないし、その後再会もしていません。

でもなぜ私が、これほどまでに彼女のことが忘れられず、

たった数分の出会いなのに、強い印象が残っているのかと言えば・・・

 

私も同じだからです。

 

それが私の場合は、恋愛ではなく「神社」なだけです。

こちらでも書いている通り、

「私は私を知らなかった」 - 『神主の遺言』

私は大学に入学する前後から、地元のある神社でご奉仕したいと思っていました。

ここの宮司になりたいと強く願っていました。

しかしすべて私のやり方が間違っていたために、

ご奉仕どころか「出禁」みたいな感じになってしまったのです。

 

もちろん、もう諦めていますし、静かにしていることが、私にできる唯一のことです。

そしてこの先、どこか別の神社で、ご奉仕させてもらえるのであれば、させて欲しいと思っています。

 

しかし正直、片思いに苦しんだ彼女と同じように、

私の心のどこかに、未だあの神社が黙ってたたずんでいるのも事実です。

 

ただ私はそれでいいと思っています。

というより思うようになりました。

消えないからです。

しかし「淡く」はなる。

はっきりとした鮮やかさがぼけていき、セピア色に、モノクロにはできるのです。

 

うん、それでいいじゃないですか。

 

私の目はどんな目だろう、

思い込みや偏見がない透き通った目だろうか、

希望を見つめる朗らかな目だろうか、

何事も受け入れる静かな目だろうか、

 

それとも

執着の拘泥に苦しむ「使い込んだ目」だろうか。

 

 

 

最後までお読みいただきありがとうございます。

またの記事でお会いしましょう。

ユーチューブ @kannushinoyuigon の方もよろしくお願いします。