『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

「神」と「神様」の違い

おはようございます。

 

 

 

 

昨日のブログ私の姿は結構理解するのが難しいかと思いますが、

 

どうぞ繰り返し読んでみて下さい。だんだんわかってくると思います。

 

 

 

 

さて、今日は「神」と「神様」の違いです。

 

このブログで何回か述べていますが、

 

「神」とは「人」であり、「神」とは「命」であり、「神」とは「あなた」であり・・・

 

あらゆるもの、一切を含んだ存在、

 

「それ」です。

 

「それ」をもう少し、わかりやすく言うと、

 

「統合的存在」といっていいかも知れません。

 

私たちは、この「それ」(統合的存在)の言わば手足となって、

 

様々な経験を重ねることによって、「それ」は自らの存在を確認しようとしています。

 

私たちには「理由なき好き」が備わっていると「神の声」は誰でも聞けますで書きましたが、

 

この「理由なき好き」を最大に生かし

 

最終的に、自分ではなく、他人やその他の命あるものなどに対し、

 

愛を分かち合うようになります。

 

その愛をより多くの人たちに振りまき、一生を捧げた人を、

 

後世の人が「神様」と称えるわけです

 

つまり

 

「神」と呼んでいるのは、「それ」(統合的存在)の事であり、

 

「神様」と呼んでいるのは、「それ」の意思に従って、愛を多くの人に分かち合った人の事を指しているのです。

 

注意すべきは、「それの意思」という部分です。

 

これは「それ」から命令されたり、「それ」に従うということではありません。

 

あくまでも自分の「好き」に基づいた自らの意思の事です。

 

イエス様も、お釈迦様も、ムハンマド様も・・・

 

宗教者として、人々を苦しみから救うことが「好き」だったのです。

 

だから、その使命に燃え、一生を捧げ、実際に人々を安らぎへと導いて下さったのです。

 

 

松下幸之助さんも、本田宗一郎さんも、ビルゲイツさんも、スティーブン・ジョブズさんも、マークザッカーバーグさんも、

 

お商売人として、技術者として、経営や開発が「好き」で、そして最終的に多くの人々に便利を届けてくれたのです。

 

 

彼らは自らの「好き」に従い、そして多くの人のためになりました。

 

だから敬愛され、時には「神様」として祀らるのです。

 

私たちだって、この人たちとまったく同じように、それぞれが「好き」を持っています。

 

それを追求し、極めることによって、他の人々のため(つまり愛の分かち合い)ができるようになります。

 

そしてここで重要なことを思い出してください。

 

私たちは元は「一つ」つまり「それ」(統合的存在)です。

 

自分も他人も実はまったく同じ「それ」なのです。

 

つまり、他の人々のため、というのは、実は結果的には「自分」=「それ」(統合的存在)のためだということです。

 

「それ」という「命」は「一つ」です。

 

実は「理由なき好き」を追求することにより、自分を愛し、そして、他人に愛を分かち合い、それは実は自分をより愛することになっているのです。

 

これこそ、「それ」(統合的存在)の愛の循環ということです。

 

 

さぁ

 

「神」と「神様」と違いがわかりましたが?

 

お近くの神社はどんな神様が祀られていますか?

 

その神様のご事績を調べてみて下さい。

 

その神様は何かに秀で(つまりそれが好きで)、その力を用いて多くの人々を幸福にもたらしたから、

 

後に神社の「神様」として祀られたはずです。

 

是非、確認してみて下さい。

 

 

それでは、また。